式内社「更杵村大兵主神社」の論社、飛鳥朝の祭祀や創祀の伝承
更杵神社 兵庫県朝来市和田山町寺内NO1
[住所]兵庫県朝来市和田山町寺内
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更杵神社(さらきねじんじゃ)は、兵庫県朝来市和田山町寺内にある神社。山陰本線の和田山駅の北3.5キロほど。和田山郷土歴史館の近く。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「更杵村大兵主神社(但馬国・養父郡)」に比定される式内社(小社)の論社。兵主神社の一つ。近代社格では村社。

創祀年代は不詳。式内社「更杵村大兵主神社」は、『但馬郷名記』によれば、飛鳥時代、第42代持統天皇4年(690年)、養父兵団の置かれていた更杵に兵主神を祀ったのが創祀。

『国司文書 但馬故事記』によれば、持統天皇2年(688年)秋7月、養父郡の更杵村に兵庫が設けられたとある。

それによれば、三宅宿祢神床陣法博士が大生部了(おおふのさとる)を率い、一国の壮丁4分の1を招集し、武事を講習したという。その地に、兵庫を設け、大兵主神を祀った。

しかし、それ以前の第38代天智天皇の御宇、養父郡の小領で、第36代孝徳天皇の第二皇子である表米の嫡子、日下部都牟自が当社の祭典を盛大に催したという伝承もある。

「更杵」の名称は、天日槍命の岳父である前津耳の子孫、佐良公がこの地に住んでおり、佐良公村が更杵村に転訛したという。

『国司文書 但馬故事記』によれば、第44代元正天皇の御宇、奈良時代初期の養老3年(719年)冬10月、機能を拡張した。

この際、養父郡の兵庫を浅間邑に遷し、健児所(こんでいしょ)を置いた。伊久刀首武雄は、兵主神を浅倉に祀ったという。

つまり、当地から式内社「更杵村大兵主神社」にとっても要の兵庫が、早々になくなったことを意味し、その衰退に直結したとも考えられる。

ちなみに、浅倉の地には新たに兵主神社が創建された。やはり式内社で、現在の豊岡市日高町浅倉の兵主神社である。

近世に至り、更杵の集落そのものが衰え、式内社「更杵村大兵主神社」は取り残され、荒廃のまま放置されたという。

その際は、更杵明神などとも呼ばれたという。幕末になり、式内の再建と移宮を巡って、当地の寺内と林垣が対立したが、結局現在地に再建された。

古社地は不明だが、かつての更杵集落は現在の和田山町室尾あたりだったという。明治6年(1873年)、村社に列した。御祭神は素盞嗚尊。例祭は10月10日。

しかし、当社は社殿や境内の貧弱さから式内比定されず、林垣の十六柱神社が式内社「更杵村大兵主神社」として報告され、今に至る。

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更杵神社 兵庫県朝来市和田山町寺内NO2
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