近江国高島郡の日置部の裔が祖神を奉斎、常願寺川の沿岸
[住所]富山県中新川郡立山町利田2316
[電話]-
日置神社(ひおきじんじゃ)は、富山県中新川郡立山町利田にある神社。常願寺川東岸。富山地鉄立山線の五百石駅の西約2.6キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「日置神社(越中国・新川郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
社記によれば、第43代元明天皇の御宇、奈良時代草創期の和銅2年(709年)、近江国高島郡の日置部の裔である日置部廣人が、当地に至って氏神の忌部の祖を祀ったという。
近江国 高島郡にも式内社「日置神社」があり、滋賀県高島市の当社および式内同名神社と、マキノ町の大處神社の境内社が論社である。
常願寺川の沿岸にあるため、度々水難に遭い、三度の遷宮を経て、現社地に鎮座したと伝わる。現鎮座地は利田、北側に日置の地名が残る
古くは利田日置とも。なお、式内社「日置神社」は、『続日本後紀』承和12年(845年)9月に「新川郡無位日置神従五位下」とあり、
その後、『日本三代実録』貞観2年(860年)5月29日には「正五位上」、貞観9年(867年)2月27日には「従四位上」に進んだ。
他の論社に日中の当社および式内同名神社がある。江戸時代に論争になった。結果、日中が国常立社となったのに対して、当社は沖の御前となった。
当社域は往時、広大で、粟茸が多く生えていた。村人はそれを盗んで食べていた。村一番の正直者である甚右衛門も、粟茸を盗んだ。
すると、御神霊が甚右衛門に乗り移り、その言行から、村人は改心し、二度と盗むことがなくなったという。
御祭神は天太玉命。天照大神を配祀する。ただし、資料によっては、祭神不詳、大山守命、高魂命などとなっている。例祭は9月15日。
【ご利益】
事業成功、開運招福、厄災除け
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・富山県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、富山県に鎮座している神社の一覧
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日置神社(ひおきじんじゃ)は、富山県中新川郡立山町利田にある神社。常願寺川東岸。富山地鉄立山線の五百石駅の西約2.6キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「日置神社(越中国・新川郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
社記によれば、第43代元明天皇の御宇、奈良時代草創期の和銅2年(709年)、近江国高島郡の日置部の裔である日置部廣人が、当地に至って氏神の忌部の祖を祀ったという。
近江国 高島郡にも式内社「日置神社」があり、滋賀県高島市の当社および式内同名神社と、マキノ町の大處神社の境内社が論社である。
常願寺川の沿岸にあるため、度々水難に遭い、三度の遷宮を経て、現社地に鎮座したと伝わる。現鎮座地は利田、北側に日置の地名が残る
古くは利田日置とも。なお、式内社「日置神社」は、『続日本後紀』承和12年(845年)9月に「新川郡無位日置神従五位下」とあり、
その後、『日本三代実録』貞観2年(860年)5月29日には「正五位上」、貞観9年(867年)2月27日には「従四位上」に進んだ。
他の論社に日中の当社および式内同名神社がある。江戸時代に論争になった。結果、日中が国常立社となったのに対して、当社は沖の御前となった。
当社域は往時、広大で、粟茸が多く生えていた。村人はそれを盗んで食べていた。村一番の正直者である甚右衛門も、粟茸を盗んだ。
すると、御神霊が甚右衛門に乗り移り、その言行から、村人は改心し、二度と盗むことがなくなったという。
御祭神は天太玉命。天照大神を配祀する。ただし、資料によっては、祭神不詳、大山守命、高魂命などとなっている。例祭は9月15日。
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