平安初期の勧請、式内論争で一時期国常立社、10月に神輿の火渡り
[住所]富山県中新川郡立山町日中65
[電話]-
日置神社(ひおきじんじゃ)は、富山県中新川郡立山町日中にある神社。白岩川西岸。富山地鉄立山線の田添駅の東約3.3キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「日置神社(越中国・新川郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。日中日置神社とも。
平安時代初期の大同2年(807年)、越中国守佐伯有若による創立と伝わる。御祭神は、天押日命。天忍日命と記される場合もある。
式内社「日置神社」は、『続日本後紀』承和12年(845年)9月に「新川郡無位日置神従五位下」とあり、
その後、『日本三代実録』貞観2年(860年)5月29日には「正五位上」、貞観9年(867年)2月27日には「従四位上」に進んだ。
他の論社に利田の当社および式内同名神社がある。江戸時代に論争になった。結果、利田が沖の御前、当社が国常立社としたという。
往時は社運が隆盛し、多くの社僧を擁し、社領1000俵ほどを有してたが、戦国時代の兵火などで衰微したという。
古くから神仏習合し、境内には惣門や仁王門など仏教色の強い施設があったというが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式は廃された。
ただ、当社の近くに日置寺という寺があり、本尊は行基作と伝えられる杉材の木像聖観音。そのため、当社の氏子は杉の下駄を履かず、火葬の際にも杉材を使わないという。
明治になり、現社号に復して村社に列し、明治32年(1899年)、社殿が造営された。拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き。
例祭は10月12日。神輿練りと「火渡り」が有名。祭礼当日、当社で行われる神事の後、バチ(バツ)と呼ばれる露払いに続いて、村の若衆に担がれた神輿が集落の家々を巡る。
それぞれの家では、神官が通りに面した場所から神輿に向かって祝詞を捧げ、続いて神輿ふりが行われる。
夜がふけ、日付が変わるころ、集落のすべての家を巡った神輿は、押し引きを繰り返しながら当社に向かう。
当社では鳥居の前に神輿から穢れを祓う大きな火が焚かれ、神輿はこれを駆け抜ける「火渡り」をして宮入りする。
【ご利益】
地域安全、家内安全、無病息災

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・富山県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、富山県に鎮座している神社の一覧
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日置神社(ひおきじんじゃ)は、富山県中新川郡立山町日中にある神社。白岩川西岸。富山地鉄立山線の田添駅の東約3.3キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「日置神社(越中国・新川郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。日中日置神社とも。
平安時代初期の大同2年(807年)、越中国守佐伯有若による創立と伝わる。御祭神は、天押日命。天忍日命と記される場合もある。
式内社「日置神社」は、『続日本後紀』承和12年(845年)9月に「新川郡無位日置神従五位下」とあり、
その後、『日本三代実録』貞観2年(860年)5月29日には「正五位上」、貞観9年(867年)2月27日には「従四位上」に進んだ。
他の論社に利田の当社および式内同名神社がある。江戸時代に論争になった。結果、利田が沖の御前、当社が国常立社としたという。
往時は社運が隆盛し、多くの社僧を擁し、社領1000俵ほどを有してたが、戦国時代の兵火などで衰微したという。
古くから神仏習合し、境内には惣門や仁王門など仏教色の強い施設があったというが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式は廃された。
ただ、当社の近くに日置寺という寺があり、本尊は行基作と伝えられる杉材の木像聖観音。そのため、当社の氏子は杉の下駄を履かず、火葬の際にも杉材を使わないという。
明治になり、現社号に復して村社に列し、明治32年(1899年)、社殿が造営された。拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き。
例祭は10月12日。神輿練りと「火渡り」が有名。祭礼当日、当社で行われる神事の後、バチ(バツ)と呼ばれる露払いに続いて、村の若衆に担がれた神輿が集落の家々を巡る。
それぞれの家では、神官が通りに面した場所から神輿に向かって祝詞を捧げ、続いて神輿ふりが行われる。
夜がふけ、日付が変わるころ、集落のすべての家を巡った神輿は、押し引きを繰り返しながら当社に向かう。
当社では鳥居の前に神輿から穢れを祓う大きな火が焚かれ、神輿はこれを駆け抜ける「火渡り」をして宮入りする。
【ご利益】
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