奈良期の創祀、但馬五社に感謝された土木神、お走り祭り
[住所]兵庫県養父市長野265
[電話]079-666-0867
齋神社(いつきじんじゃ、斎神社)は、兵庫県養父市長野にある神社。近代社格では郷社。播但線の新井駅の北西8.5キロほど、県道70号線沿い。御朱印の有無は不明。
第45代聖武天皇の御宇、奈良時代前期の天平2年(730年)の創祀。もとは現在地より300メートル隔てた丘陵に鎮座していた。
平安時代中期の永承年間(1046年-1053年)、現在地に遷座したという。鎌倉時代には神田1反歩を有したと伝わる。
室町時代には山名氏の崇敬を受け、江戸時代には生野代官の信仰を得た。江戸時代中期の宝暦10年(1760年)、本殿が再建された。
明治6年(1873年)10月、村社に列し、昭和10年(1935年)10月10日には郷社に昇格した。昭和12年(1937年)には本殿が新築された。
宝暦10年建立の旧本殿は、境内摂社である楯縫神社として現存する。県の登録文化財。平成21年(2009年)8月、台風により、昭和12年新築の本殿が倒壊した。
拝殿には、市指定文化財「斎神社のお走り絵馬」があった。明治32年(1899年)、地元の絵師村上墨渓が、後述のお走り祭りの祭礼行列を描いた奉納絵馬。
拝殿も本殿とともに倒壊、絵馬も埋没した。この台風では、宝暦10年建立の摂社楯縫神社は奇跡的に無傷だった。その後、拝殿とともに、本殿も再建された。
土砂に埋もれた昭和12年建立の本殿を解体しつつ、救出、それをもとに再建された。その際、豪華に作られた彫刻が、姫路市飾磨区の三代目松本義廣の作品と判明。
祭礼で使う屋台彫刻の専門家で、名工と言われた人物。素戔嗚尊の八岐大蛇退治や天照大神による天の岩屋戸の場面、龍や麒麟など多数の彫刻があった。
御祭神は、天太玉命・手置帆負命・彦狹知命。摂社楯縫神社(彦狹知命)は、『延喜式神名帳』にある「楯縫神社(但馬国・養父郡)」に比定される式内社(小社)の論社。
『神祇志料』には「楯縫神社 齋明神といふ」とあり、以前は境内社ではなく、当社そのものが楯縫神社だと考えられていたともいう。本社・摂社ともに彦狹知命を祀る所以。
例祭は10月9日。4月15日・16日にお走り祭りがある。養父神社の神輿がこの2日間、「ハツトウ、ヨゴザルカ」と掛け声を掛けあいながら、当社まで往復する。
当社と養父神社の距離は片道実に16キロ、往復で30キロ以上、時に40キロともされる。神輿は重さ150キロもあり、途中川渡御をしながら練り歩く。但馬の奇祭、とも。
由来は、神代の昔、円山川下流地域は、泥海になっており、何とかこの地が豊かな農地にならないかと但馬五社の神が相談していた。
但馬五社とは、粟鹿大明神、出石大明神、養父大明神、小田井大明神、絹巻大明神。但馬国を代表する神々である。
そこで、土木の神である斎明神にお願いしては、ということになり、その名代として養父大明神が鮭の背に乗って、川を遡り、ちきり渕からお願いした。
斎明神は快く引き受け、早速川を下られ、円山川河口の瀬戸を切り開かれた。すると、泥海はたちまち引いて、肥沃な土地が現れた。
喜んだ五社の神々は、再び養父大明神を名代として、旧暦師走の未の日と申の日にかけて、お礼参りするようになった、という。明治10年(1877年)、現行日に改められた。
なお、式内社「楯縫神社」の論社は他に、当社北数百メートルの建屋に式内同名神社がある。また、但馬国には気多郡にも同名の式内社があり、豊岡市に式内同名神社に比定されている。
【ご利益】
産業振興、事業成功、家内安全
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・兵庫県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、兵庫県に鎮座している神社の一覧
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齋神社(いつきじんじゃ、斎神社)は、兵庫県養父市長野にある神社。近代社格では郷社。播但線の新井駅の北西8.5キロほど、県道70号線沿い。御朱印の有無は不明。
第45代聖武天皇の御宇、奈良時代前期の天平2年(730年)の創祀。もとは現在地より300メートル隔てた丘陵に鎮座していた。
平安時代中期の永承年間(1046年-1053年)、現在地に遷座したという。鎌倉時代には神田1反歩を有したと伝わる。
室町時代には山名氏の崇敬を受け、江戸時代には生野代官の信仰を得た。江戸時代中期の宝暦10年(1760年)、本殿が再建された。
明治6年(1873年)10月、村社に列し、昭和10年(1935年)10月10日には郷社に昇格した。昭和12年(1937年)には本殿が新築された。
宝暦10年建立の旧本殿は、境内摂社である楯縫神社として現存する。県の登録文化財。平成21年(2009年)8月、台風により、昭和12年新築の本殿が倒壊した。
拝殿には、市指定文化財「斎神社のお走り絵馬」があった。明治32年(1899年)、地元の絵師村上墨渓が、後述のお走り祭りの祭礼行列を描いた奉納絵馬。
拝殿も本殿とともに倒壊、絵馬も埋没した。この台風では、宝暦10年建立の摂社楯縫神社は奇跡的に無傷だった。その後、拝殿とともに、本殿も再建された。
土砂に埋もれた昭和12年建立の本殿を解体しつつ、救出、それをもとに再建された。その際、豪華に作られた彫刻が、姫路市飾磨区の三代目松本義廣の作品と判明。
祭礼で使う屋台彫刻の専門家で、名工と言われた人物。素戔嗚尊の八岐大蛇退治や天照大神による天の岩屋戸の場面、龍や麒麟など多数の彫刻があった。
御祭神は、天太玉命・手置帆負命・彦狹知命。摂社楯縫神社(彦狹知命)は、『延喜式神名帳』にある「楯縫神社(但馬国・養父郡)」に比定される式内社(小社)の論社。
『神祇志料』には「楯縫神社 齋明神といふ」とあり、以前は境内社ではなく、当社そのものが楯縫神社だと考えられていたともいう。本社・摂社ともに彦狹知命を祀る所以。
例祭は10月9日。4月15日・16日にお走り祭りがある。養父神社の神輿がこの2日間、「ハツトウ、ヨゴザルカ」と掛け声を掛けあいながら、当社まで往復する。
当社と養父神社の距離は片道実に16キロ、往復で30キロ以上、時に40キロともされる。神輿は重さ150キロもあり、途中川渡御をしながら練り歩く。但馬の奇祭、とも。
由来は、神代の昔、円山川下流地域は、泥海になっており、何とかこの地が豊かな農地にならないかと但馬五社の神が相談していた。
但馬五社とは、粟鹿大明神、出石大明神、養父大明神、小田井大明神、絹巻大明神。但馬国を代表する神々である。
そこで、土木の神である斎明神にお願いしては、ということになり、その名代として養父大明神が鮭の背に乗って、川を遡り、ちきり渕からお願いした。
斎明神は快く引き受け、早速川を下られ、円山川河口の瀬戸を切り開かれた。すると、泥海はたちまち引いて、肥沃な土地が現れた。
喜んだ五社の神々は、再び養父大明神を名代として、旧暦師走の未の日と申の日にかけて、お礼参りするようになった、という。明治10年(1877年)、現行日に改められた。
なお、式内社「楯縫神社」の論社は他に、当社北数百メートルの建屋に式内同名神社がある。また、但馬国には気多郡にも同名の式内社があり、豊岡市に式内同名神社に比定されている。
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