多遅麻物部の祖・気多の大県主を祀る、禰布ヶ森明神とも
[住所]兵庫県豊岡市日高町国分寺797
[電話]-
売布神社(めふじんじゃ)は、兵庫県豊岡市日高町国分寺にある神社。但馬国府推定地の祢布ケ森遺跡の豊岡市役所日高総合支所の北。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「賣布神社(但馬国・気多郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
伊香色男命の子、物部大売布命は、日本武尊に従い、東夷征伐に貢献、その功により、摂津の川奈辺(川辺)・多遅麻(但馬)の気多・黄沼前(城崎)の三県を賜った。
大売布命は多遅麻に下り、気多の射楯宮に住した。多遅麻物部の祖となった。その後都に出仕したが、第13代成務天皇60年、多遅麻に還った。
神功皇后摂政2年5月21日、気多の大県主とも呼ばれた物部連大売布命が薨じた。150歳だったという。射楯丘に殯したと伝わる。
当社はその物部連大売布命を祀った社だと考えられている。射楯は後に石立となり、当地のことを示す。当社の創祀年代は不詳。
一説には、飛鳥時代の朱鳥3年(688年)の創祀だという。もとは但馬国分寺跡のある禰布ヶ森遺跡に鎮座していたという。禰布ヶ森明神とも呼ばれた。
旧地は洪水で流出したため、中世以降は天神山に鎮座していたが、幕末の文久2年(1862年)、大雨で境内が荒れたため、現社地に遷座した。
万延元年(1860年)、本殿を再建した、というが、遷座前に再建し、遷座後は移築した、ということだろうか。
天神山の旧地には今も小祠が残るという。明治維新の際、国分寺境内から遷された村社荒神神社の境内に鎮座するという。
『但馬式社鎮座考』には「高田庄石立坐とせり」とある。もとは石立村に位置したが、同村が国分寺村と合併し、国保村と改称した。
明治6年(1873年)10月、村社に列した。大正10年(1921年)、本殿の屋根替えが行われた。御祭神は大賣布命。埴安姫命とする説もある。
例祭は10月15日。毘沙門天・稲荷大明神を配祀するという。境内社に三柱神社がある。
なお、同名の式内社として、摂津国 河辺郡にも賣布神社が、出雲国 意宇郡にも賣布神社がある。また、丹後国には竹野郡にも同名神社があり、熊野郡にもあって、賣布神社と布杜神社が論社。
【ご利益】
地域安全、家内安全、厄災除け
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売布神社(めふじんじゃ)は、兵庫県豊岡市日高町国分寺にある神社。但馬国府推定地の祢布ケ森遺跡の豊岡市役所日高総合支所の北。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「賣布神社(但馬国・気多郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
伊香色男命の子、物部大売布命は、日本武尊に従い、東夷征伐に貢献、その功により、摂津の川奈辺(川辺)・多遅麻(但馬)の気多・黄沼前(城崎)の三県を賜った。
大売布命は多遅麻に下り、気多の射楯宮に住した。多遅麻物部の祖となった。その後都に出仕したが、第13代成務天皇60年、多遅麻に還った。
神功皇后摂政2年5月21日、気多の大県主とも呼ばれた物部連大売布命が薨じた。150歳だったという。射楯丘に殯したと伝わる。
当社はその物部連大売布命を祀った社だと考えられている。射楯は後に石立となり、当地のことを示す。当社の創祀年代は不詳。
一説には、飛鳥時代の朱鳥3年(688年)の創祀だという。もとは但馬国分寺跡のある禰布ヶ森遺跡に鎮座していたという。禰布ヶ森明神とも呼ばれた。
旧地は洪水で流出したため、中世以降は天神山に鎮座していたが、幕末の文久2年(1862年)、大雨で境内が荒れたため、現社地に遷座した。
万延元年(1860年)、本殿を再建した、というが、遷座前に再建し、遷座後は移築した、ということだろうか。
天神山の旧地には今も小祠が残るという。明治維新の際、国分寺境内から遷された村社荒神神社の境内に鎮座するという。
『但馬式社鎮座考』には「高田庄石立坐とせり」とある。もとは石立村に位置したが、同村が国分寺村と合併し、国保村と改称した。
明治6年(1873年)10月、村社に列した。大正10年(1921年)、本殿の屋根替えが行われた。御祭神は大賣布命。埴安姫命とする説もある。
例祭は10月15日。毘沙門天・稲荷大明神を配祀するという。境内社に三柱神社がある。
なお、同名の式内社として、摂津国 河辺郡にも賣布神社が、出雲国 意宇郡にも賣布神社がある。また、丹後国には竹野郡にも同名神社があり、熊野郡にもあって、賣布神社と布杜神社が論社。
【ご利益】
地域安全、家内安全、厄災除け
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