もと三宝荒神、明治期に一度は北吸神社、式内認定で再改称
[住所]京都府舞鶴市北吸751
[電話]0773-63-7588

三宅神社(みやけじんじゃ)は、京都府舞鶴市北吸にある神社。小浜線・舞鶴線の東舞鶴駅の北西、国道27号線の丹後街道の舞鶴市役所前交差点の近くの高台。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「三宅神社(丹後国・加佐郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では無格社。

創祀年代は不詳。もとはもう一つ西側の谷で、現在の三宅団地に鎮座した。三宝荒神・三宅荒神・三宅太荒神社などと称した。

往古は荘厳な大社だったようで、いつしか衰微したという。鎮座地は字神子屋敷、字宮ノ平などと呼ばれ、貴官の屋敷など何らかの遺構だったともされる。

式内社「三宅神社」は三宅郷の総鎮守だったと考えられるが、その三宅郷も不詳。『室尾山観音寺神名帳』に「従二位三宅明神」「正三位三宅明神」とある。

つまり、式内社「三宅神社」は後年、二社かそれ以上に分裂した可能性があり、各種資料でも様々な指摘がある。

『丹後風土記残欠』では、「三宅郷 河辺坐三宅社」とあり、河辺鎮座の社を式内社であると示唆している。現在該当するのは河辺八幡神社である。

『丹哥府志』では、「三宅神社今訛りて宮崎明神と称す、祭六月十八日」とある。喜多に宮崎神社がある。

ただし、水戸家修『大日本史神祇志』、栗田寛『神祇志料』、吉田東伍『大日本地名辞書』、村岡良弼『日本地理志料』では、「今北吸村に在り」と当社を比定。

ただ、当社はあくまでも荒神であり、式内社との関わりは不明。ともかく、古くから地元の篤い崇敬を受けてきたのは間違いない。

明治になり、神仏分離令により、北吸神社と改称、さらに明治15年(1882年)には式内社として現社号への改称が許可された。

明治24年(1891年)、もとの地は軍用地(射撃場)になって立ち退かされ、全戸が糸谷(現在の北吸谷)や浜地区に移住したため、当社も現在地に遷座した。

御祭神は豊宇気姫命。ただし、三宅神社であれば、三宅連の祖神が本来か。多遅摩毛理を御祭神の1柱に挙げている資料もある。

また、荒神だったので、台所の守護神(竃の神)だったのだろう。明治になり、神仏分離令を通じて、同じ食物に関係の深い神として、豊宇気姫命を御祭神としたと、とも。

例祭は7月10日。境内社に、稲荷神社、吉備大臣命社、恵比寿神社、秋葉神社がある。なお、式内社「三宅神社」の論社は上述の他に、福知山市大江町公庄の熊野神社がある。

【ご利益】
五穀豊穣、家内安全、地域安全
三宅神社 京都府舞鶴市北吸
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