源頼朝挙兵の地、四條郷の総社、10月に三番叟、紅葉
守山八幡宮 静岡県伊豆の国市寺家1204-1
[住所]静岡県伊豆の国市寺家1204-1
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守山八幡宮(もりやまはちまんぐう)は、静岡県伊豆の国市寺家にある神社。狩野川東岸の守山の中腹。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「石徳高神社(伊豆国・田方郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

伊豆箱根鉄道駿豆線の韮山駅の南西、伊豆長岡駅の北西。国道136号線の下田街道の西。近くには守山城跡や北条時政墓などがある。

北条氏ゆかりの願成就院の後方にあたる。創祀年代は不詳。飛鳥時代の大化3年(647年)、大山祇神を御祭神として創建された、とも。

往古は、狩野川を越えた当社の西にある大男山(雄徳山)山頂に鎮座していたという。昔、狩野川は守山の東を流れていたという。

しかし、狩野川が両郷の中間を流れるようになったことから、それぞれの郷に総鎮守を遷した。江間の地にも分祀、現在の豆塚神社である。守山の地に分祀されたのが当社。

平安時代の延喜年間(901年-923年)に豊前国宇佐から八幡神を勧請して合祀した。平安時代末期になり、現在地の寺家に遷座した。

治承4年(1180年)、当地で源頼朝が挙兵、当社に源氏再興を祈願した。現在も「源頼朝挙兵之碑」が建っている。

挙兵後、夜陰に乗じ、源重忠の軍兵数十騎が山木判官平兼隆を襲い討った。遥かに山木館の火煙を望み、頼朝は悲願の達成を喜んだという。

この後、紆余曲折は経るが、鎌倉幕府草創の礎となったことは間違いない。頼朝は「鎮守を崇拝すれば怪異はなくなる」として鎮めの神事を命じたと伝わる。

かつて当社は守山総社八幡とも称し、上條、下條、中條、南條の四條郷の総社だったという。

御祭神は、誉田別命・大山祇神・木花開邪姫命気長足姫命武内宿禰命大鷦鷯命猿田彦命を配祀する。

また、平岡神・経津主神武甕槌神・松川神・大山咋神鹽土老翁神宇迦之御魂神市杵嶋姫神瓊瓊杵尊・愛宕神を合祀する。

『静岡縣神社誌』によれば、境内社は枚岡神社・香取神社・鹿島神社・松尾神社・松川神社・塩釜神社とあり、上記の合祀神と概ね符合する。

また、若宮八幡社が祀られているというが、これは上記の配祀神のことを指すか。

『静岡縣神社誌』によれば、相殿に三島大神と浅間大神が祀られており、この三島大神が式内社「石徳高神社」であるという。

御祭神の中で、浅間大神が木花開耶姫命だとすれば、三島大神は大山祇神しか該当しない。それぞれ相殿ではなく、主祭神格ではある。

大山祇神は当社が八幡になる前からの御祭神の可能性が高く、つまり、八幡勧請以前、当社は石徳高神社と呼ばれていた、ということだろうか。

八幡勧請後、石徳高神社の御祭神が三島大神と呼ばれるようになり、当初からの御祭神である大山祇神のこと、となった、ということか。

なお、式内社「石徳高神社」の論社は他に、三島市の多賀神社、当社と同じタイミングで分祀した先の豆塚神社、伊豆市の式内同名神社がある。

9月下旬から10月上旬には、舞殿の右手にあるキンモクセイが香り、紅葉の季節にはイチョウが鮮やかに色づき、参拝者の目を楽しませる。

急な石段の上には本殿が鎮座し、下の舞殿では例年10月10日に五穀豊穣を願い三番叟(さんばそう)が演じられる。

三番叟とは、能の「翁」を、三番叟の部分のみ舞踊化した歌舞伎所作事。

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守山八幡宮 静岡県伊豆の国市寺家
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