崇神朝に創建、郡都奈明神・生野大明神、旗本久永氏陣屋跡
[住所]群馬県伊勢崎市東小保方町3304
[電話]-
大東神社(だいとうじんじゃ)は、群馬県伊勢崎市東小保方町にある神社。近代社格では村社。両毛線の国定駅の南約3.5キロ。国定赤城神社の兼務社で、御朱印も国定赤城神社で頂ける。
創建年代は不詳。口碑によれば、小保方村はその昔、夷毛野原と称され、第10代崇神天皇の御代、東国開拓の祖たる豊城入彦命が東夷征討に際して、その武臣が先駆。
そこで当地に神社を創建し、郷民に崇敬の道を教えた、という。これは近くの小泉稲荷神社とも共通する由緒である。
夷毛野大明神と尊称され、『上野国神名帳』に「佐位郡従四位上 郡都奈明神」とあるのは当社のこととされている。
平安時代前期の貞観元年(859年)正月13日、宮内少輔従五位下清原真人が上野介となり、郷土の安寧を祈って社殿を修理し、奉幣の儀を捧げた。
元慶2年(878年)2月15日、左京権亮従五位下源朝臣建が上野介となると、また奉幣の式を行い、神領を寄進した。
鎌倉時代初期の文治2年(1186年)7月20日、上野守護阿多地盛長の長子景盛がその職を継ぐと、当社殿を修理し、神領を寄進して社名を生野大明神と改めた。
南北朝時代初期、後醍醐天皇(在位:1318年-1339年)の御代、新田義貞が北条氏征討の時に戦勝を祈願し、大願の成就すると社殿を改築し、神号を勝呂大明神と改めた。
安土桃山時代の慶長5年(1600年)、久永源兵衛が当地の領主となると、社殿を改築し、神田を寄進、毎年幣帛を奉納して、祭事を巌修した。
幕末の慶応年間(1865年-1868年)、当社が合併した雷電社に、角力年寄浦風浪右衛門による相撲辻免許の奉納が行われ、以来秋季祭典の行事として角力が行われた。
明治4年(1871年)、本殿を修理し、明治6年(1873年)には村社に列した。明治40年(1907年)2月、字台・新町に散在する小社10社を合併した。
さらに、大正2年(1913年)12月には再び大字東小保方各区の無格社大小33社を合祀し、現在地に社殿を新築して遷座、現社号に改称した。
現在地はもと夷毛野原の一部を画して公共地とし、旧地頭の時は代官所が設置されたが、明治初年(1868年)に学校が建築された。
その後、村の中央に町村合併の東小学校が開校すると、当地は分教場に縮少され、残りの地を社地として寄進された。
つまり当地は旗本久永氏陣屋跡。当地を治めた旗本久永源兵衛重勝が陣屋を設けた地。東西75メートル、南北120メートル、濠や土居が構えられていた。
当社の主祭神は事勝国勝長狭命。上述のように、後に復社した小泉稲荷神社を含み、近代を通じて行われた神社統合により、当社の配神は下記の通り。
大日霊命・菅原道真命・大雷命・櫛御気野命・木花咲爺比売命・市杵島比売命・素盞鳴命・大物主命・大山昨命・大山祇命・迦具土命・宇気母智命・日本武命・伊邪那岐命・柿本人麿命・大己貴尊・埴土安媛命・誉田別命
拝殿には「気楽流柔術」の額が掲げられている。古武道の一つで、富田(戸田)流の流れを汲む総合武術。
江戸時代の化政期に、上野国・武蔵国を中心に盛隆。群馬県における気楽流柔術のうち、伊勢崎系の2団体は気楽流柔術として日本古武道協会にそれぞれ加盟している。
【ご利益】
地域安全、家内安全、厄災除け、事業成功
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大東神社(だいとうじんじゃ)は、群馬県伊勢崎市東小保方町にある神社。近代社格では村社。両毛線の国定駅の南約3.5キロ。国定赤城神社の兼務社で、御朱印も国定赤城神社で頂ける。
創建年代は不詳。口碑によれば、小保方村はその昔、夷毛野原と称され、第10代崇神天皇の御代、東国開拓の祖たる豊城入彦命が東夷征討に際して、その武臣が先駆。
そこで当地に神社を創建し、郷民に崇敬の道を教えた、という。これは近くの小泉稲荷神社とも共通する由緒である。
夷毛野大明神と尊称され、『上野国神名帳』に「佐位郡従四位上 郡都奈明神」とあるのは当社のこととされている。
平安時代前期の貞観元年(859年)正月13日、宮内少輔従五位下清原真人が上野介となり、郷土の安寧を祈って社殿を修理し、奉幣の儀を捧げた。
元慶2年(878年)2月15日、左京権亮従五位下源朝臣建が上野介となると、また奉幣の式を行い、神領を寄進した。
鎌倉時代初期の文治2年(1186年)7月20日、上野守護阿多地盛長の長子景盛がその職を継ぐと、当社殿を修理し、神領を寄進して社名を生野大明神と改めた。
南北朝時代初期、後醍醐天皇(在位:1318年-1339年)の御代、新田義貞が北条氏征討の時に戦勝を祈願し、大願の成就すると社殿を改築し、神号を勝呂大明神と改めた。
安土桃山時代の慶長5年(1600年)、久永源兵衛が当地の領主となると、社殿を改築し、神田を寄進、毎年幣帛を奉納して、祭事を巌修した。
幕末の慶応年間(1865年-1868年)、当社が合併した雷電社に、角力年寄浦風浪右衛門による相撲辻免許の奉納が行われ、以来秋季祭典の行事として角力が行われた。
明治4年(1871年)、本殿を修理し、明治6年(1873年)には村社に列した。明治40年(1907年)2月、字台・新町に散在する小社10社を合併した。
さらに、大正2年(1913年)12月には再び大字東小保方各区の無格社大小33社を合祀し、現在地に社殿を新築して遷座、現社号に改称した。
現在地はもと夷毛野原の一部を画して公共地とし、旧地頭の時は代官所が設置されたが、明治初年(1868年)に学校が建築された。
その後、村の中央に町村合併の東小学校が開校すると、当地は分教場に縮少され、残りの地を社地として寄進された。
つまり当地は旗本久永氏陣屋跡。当地を治めた旗本久永源兵衛重勝が陣屋を設けた地。東西75メートル、南北120メートル、濠や土居が構えられていた。
当社の主祭神は事勝国勝長狭命。上述のように、後に復社した小泉稲荷神社を含み、近代を通じて行われた神社統合により、当社の配神は下記の通り。
大日霊命・菅原道真命・大雷命・櫛御気野命・木花咲爺比売命・市杵島比売命・素盞鳴命・大物主命・大山昨命・大山祇命・迦具土命・宇気母智命・日本武命・伊邪那岐命・柿本人麿命・大己貴尊・埴土安媛命・誉田別命
拝殿には「気楽流柔術」の額が掲げられている。古武道の一つで、富田(戸田)流の流れを汲む総合武術。
江戸時代の化政期に、上野国・武蔵国を中心に盛隆。群馬県における気楽流柔術のうち、伊勢崎系の2団体は気楽流柔術として日本古武道協会にそれぞれ加盟している。
【ご利益】
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