因幡の倭文、七躰大明神、藩主や民衆からの長い崇敬の歴史
[住所]鳥取県鳥取市倭文548-1
[電話]090-5693-9636

倭文神社(しどりじんじゃ)は、鳥取県鳥取市倭文にある神社。千代川西岸、県道42号線が鳥取自動車道と交わる近く。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「倭文神社(因幡国・高草郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

倭文集落に西接の山の中腹に鎮座。創祀年代は不詳。倭文部がその祖神を祀ったものと伝えられる。

倭文部は、5世紀後半の百済系帰化技術民渡来以前のもの。因伯には直接、倭文部に関する文献はないが、両国にそれぞれ式内社として倭文神社がある。

伯耆国の倭文神社は伯耆国一宮であり、天慶3年(940年)に正三位の神階を授かった大社で、「鳥取 倭文神社」で検索すると、湯梨浜町のこの同名神社がヒットする。

因幡にも高草郡には、『和名類聚抄』に「倭文郷」とあり、当社の存在から、旧大和村一帯がここに比定されている。

中世以降は御祭神の大己貴命(大国主命)が七つの名を持つことから、七躰大明神と称して、産土神とされた。

安土桃山時代の天正年間(1573年-1592年)、玉津城主武田高信が三尺社を建立、慶長年間(1598年-1615年)には鹿野城主亀井玆矩が宝刀を奉納した。この宝刀は現存する。

江戸時代前期の寛永9年(1632年)、因幡鳥取藩初代藩主池田光仲が社領1石3斗1升7合を寄進、鳥取城南西(坤)の方位の守護神として崇敬された。

江戸時代は藩主のみではなく、庶民の崇敬も広く、江戸時代中期の明和元年(1764年)の遷宮には大庄屋が郡中を代表して米俵を奉納した。

また、江戸時代後期の文化7年(1810年)には郡奉行が銀百匁を奉納、節分祭には広く近郷よりの参詣者が集まった。

郷間衆庶の信仰は因幡一円におよび、昭和初期まで続いた。明治元年(1868年)、現社号に改称した。明治4年(1871年)、村社に列した。

大正4年(1915年)、神饌幣帛料共進社に指定された。大正8年(1919年)には本殿、幣殿、拝殿、社務所を改築、昭和18年(1943年)10月1日、郷社に昇格した。

御祭神は、建葉槌命(天羽槌雄命・倭文神)、大己貴命、経津主命武甕槌命。例祭は10月第2日曜日。

2月節分には節分祭が行われる。8月第1日曜日には夏越祭があり、人形(雛形)流し、茅の輪をくぐりなどがある。

一の鳥居は明治2年(1869年)、岡村市左衛門が奉献したもので、石造、高さ1丈、横8尺、以前は「倭文神社」の扁額が掛けられていた。

「倭文ノ宿禰水」という婦人の血の道の霊薬と伝えられる井泉があるが、現在は使用されていない。

当社の兼務社に、砂見の大和佐美命神社、杉森神社、円通寺の真幡木神社、赤子田の赤子田神社、河原町の荒御崎神社がある。

【ご利益】
産業振興、事業成功、病気平癒、縁結び(公式HP
倭文神社 鳥取県鳥取市倭文
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