三輪の神、大田・太田の里の大神社・太神社、江戸期には緑大明神とも
[住所]鳥取県岩美郡岩美町太田166
[電話]-
美取神社(みどりじんじゃ)は、鳥取県岩美郡岩美町太田にある神社。山陽本線の大岩駅の東、県道328号線の山陰道を東進して蒲生川を渡る手前で南下。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「大神社/太神社(因幡国・巨濃郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。いずれかの時期に、大和三輪の神を勧請したと考えられている。その祭祀者が大田田根子命。
『先代旧事本紀』に「大田田根子者大己貴命九世之孫而実三輪神の子也」とある。当地は、当社との兼ね合いで大田の里、太田の里と呼ばれるようになったようだ。
式内社「大神社」は、平安時代の貞観15年(873年)7月には正五位下に進んだ。他の論社に、浦富の荒砂神社、岩井の御湯神社が合祀したもの、鳥取市の多居乃上神社がある。
江戸時代前期の寛永12年(1635年)、因幡鳥取藩初代藩主池田光仲が祈祷を行ったという。しかし、寛永年間(1624年-1645年)には火災で焼失した。
江戸時代は「緑大明神」と称していたとも。江戸時代中期の明和6年(1769年)、京都圓満院神号の「太神社」という額面が奉納された。
明治3年(1870年)、因幡国鳥取藩12代藩主池田慶徳が御紋付幕及び提灯を奉納。明治5年(1872年)2月、郷社に列し、明治40年(1907年)2月3日に神饌幣帛料供進社に指定された。
御祭神は大物主神。例祭は3月最終日曜日で春季例祭。菅原道真・三上豊範を合祀している。三上豊範は、三上兵庫頭豊範とも、三上経実のこととも。道竹城の城主。
道竹城は当社の北東、岩美駅前にある標高150メートルの山にあった。経実は天文10年(1541年)、豊範は永禄7年(1564年)に討ち死したとされる。
当社のすぐ近くには、やはり式内社である佐弥乃兵主神社がある。
【ご利益】
地域安全、家内安全、産業振興

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・鳥取県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、鳥取県に鎮座している神社の一覧
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美取神社(みどりじんじゃ)は、鳥取県岩美郡岩美町太田にある神社。山陽本線の大岩駅の東、県道328号線の山陰道を東進して蒲生川を渡る手前で南下。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「大神社/太神社(因幡国・巨濃郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。いずれかの時期に、大和三輪の神を勧請したと考えられている。その祭祀者が大田田根子命。
『先代旧事本紀』に「大田田根子者大己貴命九世之孫而実三輪神の子也」とある。当地は、当社との兼ね合いで大田の里、太田の里と呼ばれるようになったようだ。
式内社「大神社」は、平安時代の貞観15年(873年)7月には正五位下に進んだ。他の論社に、浦富の荒砂神社、岩井の御湯神社が合祀したもの、鳥取市の多居乃上神社がある。
江戸時代前期の寛永12年(1635年)、因幡鳥取藩初代藩主池田光仲が祈祷を行ったという。しかし、寛永年間(1624年-1645年)には火災で焼失した。
江戸時代は「緑大明神」と称していたとも。江戸時代中期の明和6年(1769年)、京都圓満院神号の「太神社」という額面が奉納された。
明治3年(1870年)、因幡国鳥取藩12代藩主池田慶徳が御紋付幕及び提灯を奉納。明治5年(1872年)2月、郷社に列し、明治40年(1907年)2月3日に神饌幣帛料供進社に指定された。
御祭神は大物主神。例祭は3月最終日曜日で春季例祭。菅原道真・三上豊範を合祀している。三上豊範は、三上兵庫頭豊範とも、三上経実のこととも。道竹城の城主。
道竹城は当社の北東、岩美駅前にある標高150メートルの山にあった。経実は天文10年(1541年)、豊範は永禄7年(1564年)に討ち死したとされる。
当社のすぐ近くには、やはり式内社である佐弥乃兵主神社がある。
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