天竜川交通の守護神、田村麻呂の創祀、式内・猪家神社、竜宮伝承
[住所]静岡県浜松市天竜区二俣町鹿島1-14
[電話]-
椎ケ脇神社(しいがわきじんしゃ、椎ヶ脇神社)は、静岡県浜松市天竜区二俣町鹿島にある神社。天竜浜名湖線の西鹿島駅の北、天龍川(天竜川)の南。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「猪家神社(遠江国・長下郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。椎箇脇神社とも。
平安時代前期の延暦20年(801年)、第50代桓武天皇の命を受け、蝦夷征伐のため、征夷大将軍坂上田村麻呂が当地に下向してきた。
しかし、天竜川が洪水により氾濫し、大海のようになり、東岸(野部・広瀬)に渡ることができなかった。
そこで地元の者達は、筏を作り、田村麻呂を対岸へ渡したところ、大変喜び、この地の減水を祈り、闇淤加美神を奉斎したのが当社の始まり。
後に、御神徳により川の水が引いて、瀬(島)が現れた。この瀬(島)を最初に鹿が渡ったので、「鹿島」といわれるようになったという。
もとは猪家神社(ししがじんじゃ)と呼ばれ、現社名はそれがなまったものとも、当社北方に天竜川の深淵があり、それにちなんだものともされる。
この天竜川の深淵については、いくつか逸話が残されているが、その断崖絶壁の上に椎の木があったので椎ケ淵と呼ばれ、これが社名の由来となった、とも。
古来より当社は天竜川の船の安全航行の守り神で、大氏神として、川の氾濫を抑えるため、流域の各地に分霊が祀られてきた。
安土桃山時代の天正19年(1591年)、浜松城主堀尾六左衛門光景が、宮奉行中村宗助と代官池田忠左右衛門に命じて本殿を再建させた。
この本殿は、桁行1.8メートル、長さ3.96メートル、梁間2.5メートル、棟高5.4メートル、軒高2.79メートルの総欅造り。
慶長7年(1602年)には、伊奈備前守から神田朱印高20石が寄進された。大久保彦左衛門忠教との関連を伝える伝承が残る。
忠教が若い頃、当社の由緒も知らずに、当社の裏の岩上から椎ケ脇淵へ石をいたずらで投げ込んでいた。後に後悔して、小判3両を寄贈したという。
江戸時代後期の享和3年(1803年)に掛川宿の近藤庄左衛門(長庚)が記した『遠江古蹟図絵』に、当社神主に関わる伝承が掲載されている。
それによれば、当社神主だった大隅孫尉の先祖には竜宮へ行ったことがあるという。その5代前、御神供を椎ケ脇淵へ納めようと乗り込んだ船が転覆し、投げ出された。
その際、渦に巻き込まれ大穴に吸い込まれてしまった。その流れ着いた先が竜宮だったようで、大層な持て成しを受けたという。
翌日帰路につこうとすると、竜神から、もしここでの事を人に話せば口が利けなくなり、筆談すれば文字が書けなくなる、と警告された。
走行しているうちに、いつの間にかもとの淵に戻っていた神主は、近くにいた船頭に助けられた。地上に戻ると、1日どころか、もう何日も過ぎていたことが判明した。
周りからどこに行っていたのか問いただされても話せなかったこの神主は、とうとう筆をとり、書き出し始めたが、竜神の警告通り、急に文字が書けなくなった。
土産としてもらった「如意宝珠」という玉もあったが、3代前の神主の時に狐がくわえたまま、どこかへ消え去っていったという。
明治5年(1872年)12月10日、郷社に列し、明治40年(1907年)3月15日には神饌幣帛料供進社に指定された。
御祭神は、闇淤加美神・豊玉比売命。例祭は1月17日と8月20日。この8月の例祭時に行われた花火が、いまでは「鹿島の花火」として、夏の風物詩に定着している。
崖のような小高い山に鎮座し、境内には磐坐が多く存在する。本殿の近くに二つの祠があり、一つは古い燈籠が祀られ、もう一つは田村神社。おそらく田村麻呂を祀ったものか。
なお、式内社「猪家神社」の論社は他に、市内浜北区小林の稲荷神社がある。
【ご利益】
厄災除け、水難防止、交通安全、五穀豊穣
【関連記事】
・静岡県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、静岡県に鎮座している神社の一覧
[電話]-
椎ケ脇神社(しいがわきじんしゃ、椎ヶ脇神社)は、静岡県浜松市天竜区二俣町鹿島にある神社。天竜浜名湖線の西鹿島駅の北、天龍川(天竜川)の南。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「猪家神社(遠江国・長下郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。椎箇脇神社とも。
平安時代前期の延暦20年(801年)、第50代桓武天皇の命を受け、蝦夷征伐のため、征夷大将軍坂上田村麻呂が当地に下向してきた。
しかし、天竜川が洪水により氾濫し、大海のようになり、東岸(野部・広瀬)に渡ることができなかった。
そこで地元の者達は、筏を作り、田村麻呂を対岸へ渡したところ、大変喜び、この地の減水を祈り、闇淤加美神を奉斎したのが当社の始まり。
後に、御神徳により川の水が引いて、瀬(島)が現れた。この瀬(島)を最初に鹿が渡ったので、「鹿島」といわれるようになったという。
もとは猪家神社(ししがじんじゃ)と呼ばれ、現社名はそれがなまったものとも、当社北方に天竜川の深淵があり、それにちなんだものともされる。
この天竜川の深淵については、いくつか逸話が残されているが、その断崖絶壁の上に椎の木があったので椎ケ淵と呼ばれ、これが社名の由来となった、とも。
古来より当社は天竜川の船の安全航行の守り神で、大氏神として、川の氾濫を抑えるため、流域の各地に分霊が祀られてきた。
安土桃山時代の天正19年(1591年)、浜松城主堀尾六左衛門光景が、宮奉行中村宗助と代官池田忠左右衛門に命じて本殿を再建させた。
この本殿は、桁行1.8メートル、長さ3.96メートル、梁間2.5メートル、棟高5.4メートル、軒高2.79メートルの総欅造り。
慶長7年(1602年)には、伊奈備前守から神田朱印高20石が寄進された。大久保彦左衛門忠教との関連を伝える伝承が残る。
忠教が若い頃、当社の由緒も知らずに、当社の裏の岩上から椎ケ脇淵へ石をいたずらで投げ込んでいた。後に後悔して、小判3両を寄贈したという。
江戸時代後期の享和3年(1803年)に掛川宿の近藤庄左衛門(長庚)が記した『遠江古蹟図絵』に、当社神主に関わる伝承が掲載されている。
それによれば、当社神主だった大隅孫尉の先祖には竜宮へ行ったことがあるという。その5代前、御神供を椎ケ脇淵へ納めようと乗り込んだ船が転覆し、投げ出された。
その際、渦に巻き込まれ大穴に吸い込まれてしまった。その流れ着いた先が竜宮だったようで、大層な持て成しを受けたという。
翌日帰路につこうとすると、竜神から、もしここでの事を人に話せば口が利けなくなり、筆談すれば文字が書けなくなる、と警告された。
走行しているうちに、いつの間にかもとの淵に戻っていた神主は、近くにいた船頭に助けられた。地上に戻ると、1日どころか、もう何日も過ぎていたことが判明した。
周りからどこに行っていたのか問いただされても話せなかったこの神主は、とうとう筆をとり、書き出し始めたが、竜神の警告通り、急に文字が書けなくなった。
土産としてもらった「如意宝珠」という玉もあったが、3代前の神主の時に狐がくわえたまま、どこかへ消え去っていったという。
明治5年(1872年)12月10日、郷社に列し、明治40年(1907年)3月15日には神饌幣帛料供進社に指定された。
御祭神は、闇淤加美神・豊玉比売命。例祭は1月17日と8月20日。この8月の例祭時に行われた花火が、いまでは「鹿島の花火」として、夏の風物詩に定着している。
崖のような小高い山に鎮座し、境内には磐坐が多く存在する。本殿の近くに二つの祠があり、一つは古い燈籠が祀られ、もう一つは田村神社。おそらく田村麻呂を祀ったものか。
なお、式内社「猪家神社」の論社は他に、市内浜北区小林の稲荷神社がある。
【ご利益】
厄災除け、水難防止、交通安全、五穀豊穣
【関連記事】
・静岡県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、静岡県に鎮座している神社の一覧
コメント