官衙跡近く、桃山期の本殿が重文、江戸初期からの田遊祭
[住所]静岡県袋井市国本964
[電話]0538-42-3774
冨士浅間宮(ふじせんげんぐう)は、静岡県袋井市国本にある神社。東海道本線の愛野駅の北、国道1号線と東名高速道路を越える。静岡カントリー袋井コース手前。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』遠江国山名郡にある「郡邊神社/郡辺神社」「山名神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
平安時代前期の大同年間(806年-810年)、坂上田村麻呂が賊征服の神恩に報いるため、富士の大神を当地に勧請したと伝わる。
当地は官衙跡ともされる坂尻遺跡に近く、山名郡の中心的な地ともされ、この立地により、式内二社の論社になっているようだ。
南北朝時代初期の建武2年(1335年)、足利尊氏が当地を富士山本宮浅間神社に寄進、室町時代の応永7年(1400年)には今川泰範が当社に寄進した。
元亀3年(1572年)頃、戦乱の兵火にかかり焼失したが、安土桃山時代の天正18年(1590年)、社殿を再興した。
江戸時代になり、その前期の寛永15年(1638年)に社殿を再建、慶安2年(1649年)には16石9斗の朱印地を下賜された。
江戸時代中期の安永4年(1775年)12月、後期の文政12年(1831年)5月にも再建され、都合4枚の棟札が現存し、三間流造の本殿は現在、国の重要文化財に指定されている。
明治12年(1889年)、郷社に列し、明治40年(1907年)には神饌幣帛料供進社に指定された。御祭神は木花開邪姫命。例祭は10月第2日曜日で例大祭。
以前までは流鏑馬も奉納されるなど、大規模な例祭が斎行されていた。また、七十五膳と呼ばれたあらゆる農作物を網羅した神饌も用意されていたという。
現在までにこれらは伝わらないか、だいぶ略されているようだが、活きた鯉、活きた鶏を献上し、餅には牛の舌という餅を供える例は今も行われている。
また、往時をしのぶ神事として、1月3日に田遊祭が行われる。少なくとも江戸時代初期から行われていたことが古文書から分かる。
特に変わっているのは、柳の枝を鍬として、榊の小枝を早苗として、氏子全戸から男子が集まり、行事が行われること。
境内社に、原川浅間宮・冨士神社・神明神社・斎宮司社・八王子社・秋葉神社・天白社・稲荷社・谷田宮社がある。
境内には、楼門礎石が残る。享保元年(1716年)、大風により、楼門と一の鳥居が倒壊したので、明和4年(1767年)再建された際の礎石。
この再建は、当社を崇敬していた周智郡菅谷村の久野彦右衛門宗春による寄進。しかしそれも、安政元年(1854年)の大震災で倒壊、礎石のみが残った。
境内には他に、梵鐘堂跡がある。寛永4年(1627年)6月、地頭の北条出羽守氏良が田中内記重良を奉行として、新たに鋳造した梵鐘を納めた堂。
この梵鐘は、藤原加賀守の作になるもので、安永4年(1857年)の古文書にも毎年の田遊祭神事には早朝より突き初めして氏子の境内参入を促したとある。
ただ、その前年の安政3年(1856年)、掛川城主の命により、武器鋳造のため、引き揚げられたという。
なお、式内社「山名神社」の論社は他に、森町飯田と市内上山梨に式内同名神社がある。「郡辺神社」の論社は他に、赤尾渋垂郡辺神社と七ツ森神社がある。
【ご利益】
子宝、安産、子育て、五穀豊穣

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冨士浅間宮(ふじせんげんぐう)は、静岡県袋井市国本にある神社。東海道本線の愛野駅の北、国道1号線と東名高速道路を越える。静岡カントリー袋井コース手前。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』遠江国山名郡にある「郡邊神社/郡辺神社」「山名神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
平安時代前期の大同年間(806年-810年)、坂上田村麻呂が賊征服の神恩に報いるため、富士の大神を当地に勧請したと伝わる。
当地は官衙跡ともされる坂尻遺跡に近く、山名郡の中心的な地ともされ、この立地により、式内二社の論社になっているようだ。
南北朝時代初期の建武2年(1335年)、足利尊氏が当地を富士山本宮浅間神社に寄進、室町時代の応永7年(1400年)には今川泰範が当社に寄進した。
元亀3年(1572年)頃、戦乱の兵火にかかり焼失したが、安土桃山時代の天正18年(1590年)、社殿を再興した。
江戸時代になり、その前期の寛永15年(1638年)に社殿を再建、慶安2年(1649年)には16石9斗の朱印地を下賜された。
江戸時代中期の安永4年(1775年)12月、後期の文政12年(1831年)5月にも再建され、都合4枚の棟札が現存し、三間流造の本殿は現在、国の重要文化財に指定されている。
明治12年(1889年)、郷社に列し、明治40年(1907年)には神饌幣帛料供進社に指定された。御祭神は木花開邪姫命。例祭は10月第2日曜日で例大祭。
以前までは流鏑馬も奉納されるなど、大規模な例祭が斎行されていた。また、七十五膳と呼ばれたあらゆる農作物を網羅した神饌も用意されていたという。
現在までにこれらは伝わらないか、だいぶ略されているようだが、活きた鯉、活きた鶏を献上し、餅には牛の舌という餅を供える例は今も行われている。
また、往時をしのぶ神事として、1月3日に田遊祭が行われる。少なくとも江戸時代初期から行われていたことが古文書から分かる。
特に変わっているのは、柳の枝を鍬として、榊の小枝を早苗として、氏子全戸から男子が集まり、行事が行われること。
境内社に、原川浅間宮・冨士神社・神明神社・斎宮司社・八王子社・秋葉神社・天白社・稲荷社・谷田宮社がある。
境内には、楼門礎石が残る。享保元年(1716年)、大風により、楼門と一の鳥居が倒壊したので、明和4年(1767年)再建された際の礎石。
この再建は、当社を崇敬していた周智郡菅谷村の久野彦右衛門宗春による寄進。しかしそれも、安政元年(1854年)の大震災で倒壊、礎石のみが残った。
境内には他に、梵鐘堂跡がある。寛永4年(1627年)6月、地頭の北条出羽守氏良が田中内記重良を奉行として、新たに鋳造した梵鐘を納めた堂。
この梵鐘は、藤原加賀守の作になるもので、安永4年(1857年)の古文書にも毎年の田遊祭神事には早朝より突き初めして氏子の境内参入を促したとある。
ただ、その前年の安政3年(1856年)、掛川城主の命により、武器鋳造のため、引き揚げられたという。
なお、式内社「山名神社」の論社は他に、森町飯田と市内上山梨に式内同名神社がある。「郡辺神社」の論社は他に、赤尾渋垂郡辺神社と七ツ森神社がある。
【ご利益】
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