土師氏の祖神、中世に高天神城の守護神、3月火縄銃など例祭
[住所]静岡県掛川市上土方嶺向2650
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高天神社(たかてんじんじゃ)は、静岡県掛川市上土方嶺向にある神社。掛川駅の南、高天神城址、高天神山の山頂付近に鎮座する。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「比奈多乃神社(遠江国・城飼郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

創祀年代は不詳。往古、土師氏が当地に土形郷を領し、郷中に祖神である天菩比命を奉斎したと伝えられる。

『高天神旧記』によれば、第60代醍醐天皇の御代、平安時代の延喜12年(921年)正月15日に勧請したともいう。この際の勧請は、高皇産霊尊か。

室町時代の応永23年(1416年)、今川了俊が当山に城郭を築き、筑紫太宰府の天満宮菅原道真)を当地に勧請して、城中守護の神とした。

この城郭がいわゆる高天神城であり、小規模ながら、山城として堅固さを誇り、戦国時代末期には武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた。

その守護神とのイメージが強いためか、当社の創建を室町・戦国時代とするものもあるが、祭祀自体はそれ以前から行われていた。

つまり、当社は正確には高天神城址に鎮座するのではなく、当社が鎮座していた高天神山に高天神城が築かれた、ということになる。

武田・徳川による戦場と化し、当社の古記類などすべて焼失した。安土桃山時代の慶長6年(1601年)になり、大須賀出羽守忠政が6石を寄進し、社殿を再興した。

この再興の際の資料として、慶長6年4月2日付の「大須賀忠政社領寄進状」が現存し、当社宝となっている。

江戸時代になり、その前期の慶安元年(1648年)8月、3代将軍徳川家光が朱印を下付し、6石の社領が明治まで続くことになる。

明治6年(1873年)3月、郷社に列し、明治45年(1912年)3月25日には神饌幤帛料供進社に指定された。

御祭神は、高皇産霊尊・天菩毘尊・菅原道真。社名から天神・天満宮とも考えられがちだが、祭祀の状況は上述の通りで、もとは天満宮ではない。

例祭は3月25日。現在は3月最終日曜日。この祭礼は、東峰にあった社を西峰に移したことに始まり、1年に1回、東峰の社(元宮)に神が里帰りする行事。

祭礼は桜の見ごろと重なることもあり、出店なども立ち並び、毎年多くの見物人で賑わう。砲術演武大会が開催され、火縄銃を用いた砲術の実演が行われる。

特殊神事として、管粥の神事がある。河内国枚岡神社から伝えられたものだという。毎年1月15日、小豆粥の中に管100本を立てて神前に供え、その年の豊作物の豊凶を占う。

境内社として、祖霊社・元宮社がある。なお、式内社「比奈多乃神社」の論社は他に、市内上土方落合の式内同名神社がある。

【ご利益】
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高天神社 静岡県掛川市上土方嶺向
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