奈良期創立、もとは村の東の額山、富樫氏崇敬も兵乱で現在地に遷座
[住所]石川県金沢市額谷町ロ-130
[電話]076-248-0826 - 林郷八幡神社
額東神社(ぬかひがしじんじゃ)は、石川県金沢市額谷町にある神社。北鉄石川線の乙丸駅の東。県道22号線の額東神社前交差点近く。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「額東神社(加賀国・石川郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
奈良時代の神護景雲2年(768年)の創立と伝えられる。往古は村の東に当たる額山に鎮座した。
やはり式内社の額西神社が至近にある。もともと額は不毛の地だったといい、墾田を通じて田地として開発された。
以後、当社を含む額の東西社は、この開発された額地方の守護神として東・西に鎮祭されたと考えられている。
額西神社の御祭神が伊邪那美命であるのに対して、当社の御祭神は伊邪那岐命。ちなみに、北鉄石川線を南下すると、2柱とも縁深い加賀国一宮の白山比咩神社に続く。
どちらにしろ、両社とも額地方の守護神として著名になり額西神社とともに、大額・額谷・額乙丸・額新保・額三十苅・ 額助九・額栗林の額7ヶ村の総社として崇敬された。
守護富樫家の崇敬も厚く、社頭の造営や社料の寄進もあったが、富樫氏の兵乱(一向一揆とも)に際し、社殿が焼失したので、現在地に遷座したといわれる。
江戸時代にはやはり額西神社とともに富山派の山伏である宝高寺が奉仕したという。
明治初年(1868年)、村社に列し、明治33年(1900年)には郷社に昇格。明治39年(1906年)12月、神饌幣帛料供進社に指定された。
明治41年(1908年)9月18日、道勲社(道勲神社。国底立命)を合祀した。大正7年(1918年)頃だろうか、一千百五十年祭が開催された。
その際、もと出雲大社宮司で司法大臣だった千家尊福男爵が下記の祝賀の歌を寄せたという。
ただ、額西神社の御祭神に異説はない。額西神社と対になっている当社の御祭神は、やはり伊邪那岐命が妥当のような感じがする。
【ご利益】
家内安全、夫婦和合、五穀豊穣、平穏安寧

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[電話]076-248-0826 - 林郷八幡神社
額東神社(ぬかひがしじんじゃ)は、石川県金沢市額谷町にある神社。北鉄石川線の乙丸駅の東。県道22号線の額東神社前交差点近く。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「額東神社(加賀国・石川郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
奈良時代の神護景雲2年(768年)の創立と伝えられる。往古は村の東に当たる額山に鎮座した。
やはり式内社の額西神社が至近にある。もともと額は不毛の地だったといい、墾田を通じて田地として開発された。
以後、当社を含む額の東西社は、この開発された額地方の守護神として東・西に鎮祭されたと考えられている。
額西神社の御祭神が伊邪那美命であるのに対して、当社の御祭神は伊邪那岐命。ちなみに、北鉄石川線を南下すると、2柱とも縁深い加賀国一宮の白山比咩神社に続く。
どちらにしろ、両社とも額地方の守護神として著名になり額西神社とともに、大額・額谷・額乙丸・額新保・額三十苅・ 額助九・額栗林の額7ヶ村の総社として崇敬された。
守護富樫家の崇敬も厚く、社頭の造営や社料の寄進もあったが、富樫氏の兵乱(一向一揆とも)に際し、社殿が焼失したので、現在地に遷座したといわれる。
江戸時代にはやはり額西神社とともに富山派の山伏である宝高寺が奉仕したという。
明治初年(1868年)、村社に列し、明治33年(1900年)には郷社に昇格。明治39年(1906年)12月、神饌幣帛料供進社に指定された。
明治41年(1908年)9月18日、道勲社(道勲神社。国底立命)を合祀した。大正7年(1918年)頃だろうか、一千百五十年祭が開催された。
その際、もと出雲大社宮司で司法大臣だった千家尊福男爵が下記の祝賀の歌を寄せたという。
いざなひて 仰ぐはうれし 久方の 天のみ柱 めぐる月日を例祭は10月18日。なお、『加賀國式内等舊社記』『特撰神名牒』などでは当社御祭神を猿田彦命としている。
ただ、額西神社の御祭神に異説はない。額西神社と対になっている当社の御祭神は、やはり伊邪那岐命が妥当のような感じがする。
【ご利益】
家内安全、夫婦和合、五穀豊穣、平穏安寧

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