もとは式内・若倭神社か、8月に「笠井祭り」で神輿・屋台
[住所]静岡県浜松市東区笠井町1348-1
[電話]-
春日神社(かすがじんじゃ)は、静岡県浜松市東区笠井町にある神社。近代社格では郷社。県道65号線の笠井交番西交差点の北、もう一つ交差点を越えたところを西に入る。御朱印の有無は不明。
室町時代の文明14年(1482年)、室町将軍9代将軍足利義尚による創建だと伝わる。御祭神は、武甕槌之男神・経津主命・天児屋根命・比賣大神の春日四神。
戦国時代の天文10年(1541年)、今川義元が社殿を造営し、社領を寄進したという。江戸時代前期の慶安元年(1648年)、江戸幕府3代将軍徳川家光が社領5石の朱印を寄進した。
以来、浜松城主の井上氏が崇敬、社殿の造営などが行われた。明治6年(1873年)、あるいは明治12年(1879年)に村社に列し、昭和13年(1938年)7月23日、郷社に昇格した。
別殿に若倭神社(天香語山命)を祀る。『延喜式神名帳』にある「若倭神社(遠江国・麁玉郡)」に比定される式内社(小社)の論社。
若倭神社の創建年代は不詳だが、後一条天皇の御代、平安時代の万寿2年(1025年)の棟札が現存する。
『先代旧事本紀』によれば、天香語山五世孫の健筒草命は若倭部の祖とあり、当地の若倭部氏が祖神を祀ったものと考えられている。
『万葉集』防人歌にも歌が収録されている遠江国主帳で、麁玉郡の若倭部身麻呂も関係者だと考えられている。
若倭神社がいつ当社の別殿で祀られるようになったかは不詳だが、もともと当社と若倭神社は一体のものと考えられてきた節がある。
当社の神主家はもとは若倭部と名乗り、当社の社地は倭下林と呼ばれた。もともと若倭神社があった現在地に、春日神社が勧請された可能性もある。
旧来、当社の例大祭は特に近代、若倭神社例大祭として執行されていた。役場や警察への届け出は春日神社名義、町内身内同士では若倭神社を使用したとも。
大正4年(1915年)にできた精華團や昭和元年(1926年)にできた神勢團の團規約簿にも「若倭神社禮大祭に関与する」とある。
昭和13年、当社が郷社に昇格する前後から若倭神社と呼ぶのを止め、春日神社に統一していったとも。なお、他に別殿に八柱神社を祀る。
例祭は8月16日で例大祭、夏季例大祭。いわゆる「笠井祭り(笠井まつり)」で、8月14-16日。上述のように、幕末・近代から厳格に、町を挙げて執行されてきた。
神輿の渡御、町内7組の屋台引廻しがある。古来の笛・太鼓の調べにのり、町内を行進して、天満宮お仮屋までお渡りする。
御神体が祀られた神輿は、地元の「7歳になるお稚児さん」の手により綱を引かれ、静かに進む。
道案内の猿田彦(天狗)が沿道左右に並ぶ参詣人をお祓いし、平伏してお祓いを受けた人々は家内安全や無病息災を祈願する。
神輿の後には町内の屋台7台が続き、笛や太鼓の祭囃子の音色に合わせ、法被に身を包んだ氏子や若衆らとともににぎやかに笠井街道を北進する。
お仮屋の天満宮までの約1.5キロを1時間半ほどかけ引き廻す。16日は午後7時20分に天満宮を出発、当社へと帰る行列「還御の儀」が行われる。
当社境内には豊雷神社(ほうらいじんじゃ)があり、青銅で造られた雌雄一対の鹿像が高い台座の上に立っている。「春日神社境内の燈篭群」と呼ばれる多数の燈篭がある。
社叢は、イチョウ、スダジイ、スギ、クスノキ、ヒノキ、タブノキ、ヒメユズリハ、アラカシ、イロハモミジ、サカキ、クロガネモチ、カクレミノなど。
スダジイの御神木があり、樹齢500年とされる。また、左側には御神木からの実生木がある。社叢は市指定の保存樹林である。
なお、式内社「若倭神社」の論社は他に、市内浜北区宮口の六所神社がある。
【ご利益】
厄災除け、地域安全、一族・子孫繁栄

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・静岡県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、静岡県に鎮座している神社の一覧
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春日神社(かすがじんじゃ)は、静岡県浜松市東区笠井町にある神社。近代社格では郷社。県道65号線の笠井交番西交差点の北、もう一つ交差点を越えたところを西に入る。御朱印の有無は不明。
室町時代の文明14年(1482年)、室町将軍9代将軍足利義尚による創建だと伝わる。御祭神は、武甕槌之男神・経津主命・天児屋根命・比賣大神の春日四神。
戦国時代の天文10年(1541年)、今川義元が社殿を造営し、社領を寄進したという。江戸時代前期の慶安元年(1648年)、江戸幕府3代将軍徳川家光が社領5石の朱印を寄進した。
以来、浜松城主の井上氏が崇敬、社殿の造営などが行われた。明治6年(1873年)、あるいは明治12年(1879年)に村社に列し、昭和13年(1938年)7月23日、郷社に昇格した。
別殿に若倭神社(天香語山命)を祀る。『延喜式神名帳』にある「若倭神社(遠江国・麁玉郡)」に比定される式内社(小社)の論社。
若倭神社の創建年代は不詳だが、後一条天皇の御代、平安時代の万寿2年(1025年)の棟札が現存する。
『先代旧事本紀』によれば、天香語山五世孫の健筒草命は若倭部の祖とあり、当地の若倭部氏が祖神を祀ったものと考えられている。
『万葉集』防人歌にも歌が収録されている遠江国主帳で、麁玉郡の若倭部身麻呂も関係者だと考えられている。
若倭神社がいつ当社の別殿で祀られるようになったかは不詳だが、もともと当社と若倭神社は一体のものと考えられてきた節がある。
当社の神主家はもとは若倭部と名乗り、当社の社地は倭下林と呼ばれた。もともと若倭神社があった現在地に、春日神社が勧請された可能性もある。
旧来、当社の例大祭は特に近代、若倭神社例大祭として執行されていた。役場や警察への届け出は春日神社名義、町内身内同士では若倭神社を使用したとも。
大正4年(1915年)にできた精華團や昭和元年(1926年)にできた神勢團の團規約簿にも「若倭神社禮大祭に関与する」とある。
昭和13年、当社が郷社に昇格する前後から若倭神社と呼ぶのを止め、春日神社に統一していったとも。なお、他に別殿に八柱神社を祀る。
例祭は8月16日で例大祭、夏季例大祭。いわゆる「笠井祭り(笠井まつり)」で、8月14-16日。上述のように、幕末・近代から厳格に、町を挙げて執行されてきた。
神輿の渡御、町内7組の屋台引廻しがある。古来の笛・太鼓の調べにのり、町内を行進して、天満宮お仮屋までお渡りする。
御神体が祀られた神輿は、地元の「7歳になるお稚児さん」の手により綱を引かれ、静かに進む。
道案内の猿田彦(天狗)が沿道左右に並ぶ参詣人をお祓いし、平伏してお祓いを受けた人々は家内安全や無病息災を祈願する。
神輿の後には町内の屋台7台が続き、笛や太鼓の祭囃子の音色に合わせ、法被に身を包んだ氏子や若衆らとともににぎやかに笠井街道を北進する。
お仮屋の天満宮までの約1.5キロを1時間半ほどかけ引き廻す。16日は午後7時20分に天満宮を出発、当社へと帰る行列「還御の儀」が行われる。
当社境内には豊雷神社(ほうらいじんじゃ)があり、青銅で造られた雌雄一対の鹿像が高い台座の上に立っている。「春日神社境内の燈篭群」と呼ばれる多数の燈篭がある。
社叢は、イチョウ、スダジイ、スギ、クスノキ、ヒノキ、タブノキ、ヒメユズリハ、アラカシ、イロハモミジ、サカキ、クロガネモチ、カクレミノなど。
スダジイの御神木があり、樹齢500年とされる。また、左側には御神木からの実生木がある。社叢は市指定の保存樹林である。
なお、式内社「若倭神社」の論社は他に、市内浜北区宮口の六所神社がある。
【ご利益】
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