神尾神社・神野神社、下賀茂神社御祭神の母、巨岩や列石
[住所]京都府亀岡市宮前町宮川神尾山2
[電話]-
宮川神社(みやがわじんじゃ)は、京都府亀岡市宮前町宮川神尾山にある神社。山陰本線の千代川駅近くから県道73号線を西進、国道372号線を越えて進む。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「神野神社(丹波国・桑田郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
山頂に金輪寺のある神尾山(神野山)の東麓、集落の奥に鎮座する。そのため、神尾神社、神野神社とも称された。
社伝によれば、第42代文武天皇の御代、飛鳥時代末期の大宝年間(701年-704年)に山上に伊賀古夜姫命(伊賀古夜比売命)を祀ったのが創祀だという。
また、それ以前の第29代欽明天皇32年(571年)に宇佐八幡宮(誉田別命)が山中に勧請されていたとも伝えられている。
安土桃山時代の天正5年(1577年)、明智光秀と波多野秀治の合戦の際、両社とも焼失し、それ以前の詳細は不明。
この焼失の後、落雷や不作などが続いたため、江戸時代前期の正保4年(1647年)、山麓の現在地に社殿を造営し、山上にあった神野神社、山中の八幡宮を合併。
この際、現社号に改称したという。神尾山山上の金輪寺は、当社の神宮寺である。第50代桓武天皇の御代、平安時代草創期の延暦2年(783年)の開基。
山上にあった神野神社は金輪寺の地主社と位置付けられた。御祭神の伊賀古夜姫命は、京都下鴨神社御祭神である玉依姫命の母神だという。
日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、初代神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、さらに山代国岡田の賀茂に移った。
その後、久我国の北山基に鎮座した。そこで、丹波国神野の伊賀古夜姫命を娶り、玉依日子・玉依日売が生まれたという。
その関連からか、現在でも葵祭の際には、宮内庁からのお召しにより氏子青年が、毎年諸役として参加しているという。
当社は江戸時代中期の享保2年(1717年)、社殿が建立された。明治6年(1873年)、村社に列し、明治39年(1906年)には神饌幣帛料供進社に指定された。
例祭は10月17日。氏子の中で、数え年37歳の男性が当社の注連縄をかけ替える神事が行われる。もし37歳の人がいなければ、それに近い人が代行するという。
当社は半国山ハイキングコースの順路になっている。参道両脇に低いが、長い土塀があるのも特徴。
山裾に社殿があり、一段高い所に本殿がある。本殿の背後崖面には巨岩が露出しており、当社の現在地遷座以前から祭祀場だった可能性も指摘されている。
また、そこから北へ100メートルほど進んだ山道の脇に沿って、数十個の岩石が並べ置かれた列石がある。
神野山は金輪寺や神尾山城が築かれ、山中各所に石垣などが残るため、城郭施設・寺院施設の一種の可能性もあるという。
また、当社拝殿には大正12年(1923年)奉納の戦艦写真が掲げられている。
なお、氷上郡にも式内社「神野神社」があり、丹波市氷上町の式内同名神社と、丹波市市島町梶原の鴨神社が論社になっている。
【ご利益】
リフレッシュ、厄災除け、地域安全、家内安全
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宮川神社(みやがわじんじゃ)は、京都府亀岡市宮前町宮川神尾山にある神社。山陰本線の千代川駅近くから県道73号線を西進、国道372号線を越えて進む。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「神野神社(丹波国・桑田郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
山頂に金輪寺のある神尾山(神野山)の東麓、集落の奥に鎮座する。そのため、神尾神社、神野神社とも称された。
社伝によれば、第42代文武天皇の御代、飛鳥時代末期の大宝年間(701年-704年)に山上に伊賀古夜姫命(伊賀古夜比売命)を祀ったのが創祀だという。
また、それ以前の第29代欽明天皇32年(571年)に宇佐八幡宮(誉田別命)が山中に勧請されていたとも伝えられている。
安土桃山時代の天正5年(1577年)、明智光秀と波多野秀治の合戦の際、両社とも焼失し、それ以前の詳細は不明。
この焼失の後、落雷や不作などが続いたため、江戸時代前期の正保4年(1647年)、山麓の現在地に社殿を造営し、山上にあった神野神社、山中の八幡宮を合併。
この際、現社号に改称したという。神尾山山上の金輪寺は、当社の神宮寺である。第50代桓武天皇の御代、平安時代草創期の延暦2年(783年)の開基。
山上にあった神野神社は金輪寺の地主社と位置付けられた。御祭神の伊賀古夜姫命は、京都下鴨神社御祭神である玉依姫命の母神だという。
日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、初代神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、さらに山代国岡田の賀茂に移った。
その後、久我国の北山基に鎮座した。そこで、丹波国神野の伊賀古夜姫命を娶り、玉依日子・玉依日売が生まれたという。
その関連からか、現在でも葵祭の際には、宮内庁からのお召しにより氏子青年が、毎年諸役として参加しているという。
当社は江戸時代中期の享保2年(1717年)、社殿が建立された。明治6年(1873年)、村社に列し、明治39年(1906年)には神饌幣帛料供進社に指定された。
例祭は10月17日。氏子の中で、数え年37歳の男性が当社の注連縄をかけ替える神事が行われる。もし37歳の人がいなければ、それに近い人が代行するという。
当社は半国山ハイキングコースの順路になっている。参道両脇に低いが、長い土塀があるのも特徴。
山裾に社殿があり、一段高い所に本殿がある。本殿の背後崖面には巨岩が露出しており、当社の現在地遷座以前から祭祀場だった可能性も指摘されている。
また、そこから北へ100メートルほど進んだ山道の脇に沿って、数十個の岩石が並べ置かれた列石がある。
神野山は金輪寺や神尾山城が築かれ、山中各所に石垣などが残るため、城郭施設・寺院施設の一種の可能性もあるという。
また、当社拝殿には大正12年(1923年)奉納の戦艦写真が掲げられている。
なお、氷上郡にも式内社「神野神社」があり、丹波市氷上町の式内同名神社と、丹波市市島町梶原の鴨神社が論社になっている。
【ご利益】
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