もとは藤原忠衡ゆかりの法蔵寺の境内社、本殿は江戸後期
[住所]京都府亀岡市宇津根町東浦1-2
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伊達神社(だてじんじゃ)は、京都府亀岡市宇津根町東浦にある神社。山陰本線の亀岡駅の北西、桂川東岸、その支流の犬飼川の南。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「伊達神社(丹波国・桑田郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

創建年代は不詳。古くは隣接する法蔵寺の境内社だったが、江戸時代中期の延享4年(1747年)、大堰川の氾濫によって宝蔵寺とともに流出し、記録類が失われた。

一説には、奥州藤原氏の藤原秀衡の三男である忠衡(1167年-1189年)の別荘が宇津根にあり、その霊を祀ったのが当社、別荘がのちに法蔵寺となったされる。

詳しくは、忠衡が任務によって5年間上洛していた時、別荘が宇津根にあり、任務を終えて帰国の際、村長の娘が懐妊していた。

そこで、鎧、太刀、黄金などを与えたが、忠衡は平泉で源義経とともに倒れた。その村長の娘が生んだ、忠衡の娘が父の霊を祀り、鎧、太刀を納めたという。

これは法蔵寺の開基伝承でもあるが、式内社であれば、それよりも以前に存在していたことになり、そのため、当社を借りて忠衡の霊を祀ったものとされる。

『式内社の研究』によれば、本殿下に清泉が湧いており、古代では湧水も湯と言ったようで、その「湯立」が訛って伊達になったとしている。

また、当社は加塚の同名神社から分祀されたともされる。その加塚の同名神社が式内社「伊達神社」の他の論社である。

江戸時代まで宝蔵寺の境内社だったが、明治の神仏分離に際し、宝蔵寺南隣の現在地に遷座した。

一方、『式内社の研究』によれば、大正4年(1915年)まで寺内にあったという。御祭神は、五十猛命。例祭は7月23日。境内社に稲荷社がある。

境内の覆屋内に、一間社流造の本殿が鎮座する。基壇の刻銘から、江戸時代後期の寛政元年(1789年)造営と判明している。

【ご利益】
事業成功・産業振興、諸願成就
伊達神社 京都府亀岡市宇津根町東浦
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