新羅国の守護神? 新羅三郎? 式内・信露貴彦神社の論社
新羅神社 福井県南条郡南越前町今庄80-5
[住所]福井県南条郡南越前町今庄80-5
[電話]-

新羅神社(しんらじんじゃ)は、福井県南条郡南越前町今庄にある神社。北陸本線の今庄駅の南、すぐ近く。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「信露貴彦神社(越前国・敦賀郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

創立年代は不詳。一説に、平安時代前期の貞観元年(859)、智証大師(円珍)が新羅国の守護神(素盞鳴命)の御分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。

当時、当地方には朝鮮からの渡来人が数多く存在し、朝鮮の神を祀っていたは確かだという。御神体は智証大師作と伝える新羅明神の木像だという。

一説に、当社は新羅三郎義光の霊を祀った、とも。義光は鎮守府将軍頼義の三男で、関東の源氏、佐竹、柏木、加賀美、小笠原、武田などの祖。

新羅明神を氏神として、その神前で元服したため、新羅三郎と名乗った。『明治神社志料』に「当社の旧記に延喜式神名帳に所載の敦賀郡信貴彦神社是也」とある。

また、『足羽社記』に「信露貴川新羅山麓より出づ、延喜式敦賀郡信露貴彦神社是なり」と記してある。論社は他に、敦賀市沓見に式内同名神社がある。

『越前国名磧考』によれば、もとは燧山の山頂に鎮座していたが、平安時代末期の寿永2年(1183年)、源義仲(木曾義仲)がその地に城郭を築こうとした。

そこで義仲は、傍らに小社を立てて遷座し、越前国を鎮定した後、社殿を再建し、深く崇敬したという。

戦国時代の天文年間(1532年-1555年)、郷民が協議して、現社地に神殿を新築、遷座した。

江戸時代初期の元和年間(1615年-1624年)、社殿を修築。江戸時代前期の寛永4年(1627年)、福井藩主松平忠昌によって改築された。

正保2年(1645年)、火災により炎上したのを、貞享2年(1685年)に再度建築された。近世を通じて、新羅明神と称していた。

明治4年(1871年)、福井藩によって、字梅ヶ枝に鎮座の白鬚神社へ合祀し、当社の社号で近郷17ヶ村の郷社に列せられた。

しかし、明治8年(1875年)5月、敦賀県によって村社に戻された際、氏子一同が協議してもとの社地に遷座し、明治13年(1880年)2月4日に郷社に昇格した。

なお、地元では、当社を上宮、当社と一時期合併した白鬚神社を下宮と称しているという。

明治43年(1910年)4月25日、字梅ヶ枝鎮座の秋葉神社(大己貴命)、字愛宕山鎮座の愛宕神社(火産霊神)を合祀した。

同年5月14日、山中村字宮ノ下鎮座の日吉神社(大山咋命)も合祀した。大正元年(1912年)8月26日、神饌幣帛料供進社に指定された。

福井県神社庁では、県社となっているが、現在までに社号票でも郷社とあり、県社に列した由緒は伝えていない。例祭は10月8日。

拝殿の隣に境内社の祠が二つあり、左手は、大河内神社・大山咋神社の合祀殿、右が新羅宮で、稲荷神社・岩谷稲荷神社・秋葉神社・日吉神社・愛宕神社の合祀殿。

境内は藤倉山登山口にあたり、カタクリの花が約3ヘクタールにわたり群生し、毎年3月中旬から4月中旬のシーズンには藤倉山の斜面を紫色に染める。

【ご利益】
厄災除け、火防、家内安全
新羅神社 福井県南条郡南越前町今庄
【関連記事】
福井県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、福井県に鎮座している神社の一覧