武内宿禰の伝承、4月に川上祭り、境内に式内論社・田部神社
[住所]滋賀県高島市今津町北仰316-1
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津野神社(つのじんじゃ)は、滋賀県高島市今津町北仰にある神社。湖西線の線路の西、近江中庄と近江今津の駅の中間。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「津野神社(近江国・高島郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

創祀年代は不詳。社伝によれば、第12代景行天皇志賀の高穴穂宮に坐した時、志賀の仰木に居た武内宿禰に、西淡海(琵琶湖の西)の屯田を下賜した。

そこで、武内宿禰の子である紀角宿禰に治めさせたという。また、『古事記』にも記された、武内宿禰が敦賀に向う途中のこと。

当地で武内宿禰が病になったが、天地神祇に祈り、病を払った。そこで、武内宿禰の子である紀角宿禰を周防国都乃郡より呼び寄せ、この地を治めさせたともいう。

このため、当地は角郷と呼び、以来、その裔である角氏の治める土地となった。『和名類聚抄』にある「津野郷」は当地、及び当社のことではないかとする説がある。

当地で亡くなった紀角宿禰の遺骸を角山に葬ったという。そこで、紀角宿禰の六世孫である角臣来子宿禰(角凝魂神)がこれを奉斎したのが当社の起源。

平安時代前期の斉衡年間(854年-857年)、父である武内宿禰を配祀して、旧角大明神と称した。

その後、紀角氏の遠祖である第8代孝元天皇を配祀し、三神を相殿とした。なお、式内社「津野神社」の論社は他に、角川に当社および式内同名神社がある。

往古は角氏領有の角郷総社で、後に分地されて都農・川上の二郷となり、さらに治暦年間(1065年-1069年)、善積郷を加えて三郷を川上郷平等院の荘園となった。

以降、日置神社とともに、旧川上庄22ヶ村の氏神で、この伝統は4月18日の両社共催による川上祭りとして、今も連綿と続いている。

安土桃山時代の元亀3年(1572年)8月、織田信純に焼かれ、神主は御神体を奉じて宮谷に避難した。この時、すべての宝物・記録が焼失した。

江戸時代前期の元禄2年(1689年)、拝殿が再建された。元禄11年(1698年)、この地が堅田藩領となり堀田摂津守の崇敬を得て、毎年献供を受けた。

江戸時代中期の宝永元年(1704年)、本殿が再建された。また、江戸時代後期の文政7年(1824年)には拝殿が、幕末の嘉永6年(1853年)には本殿が再建された。

明治4年(1871年)、旧川越県の時に郷社に列したが、犬上県になってから村社に変更。明治14年(1881年)、上格出願で再び郷社に列した。

例祭は先述のように、4月18日。当社の例祭起源は古く、神功皇后の三韓征討の故事に始まると伝わる。

紀兜を着用し、競馬を営んだという。毎年4月の申日を祭礼としたが、その後変遷し、大正2年(1913年)の氏子紛争以来、日置神社との共催となった。

それが川上祭りで、さんやれ祭とも呼ばれ、高さ約18メートルの大竹に赤・青・白の飾りをつけた大幟(おおのぼり)が特徴。

また、小学生の男子(今は女子も)が鉦や太鼓を打ち鳴らす踊り子など、さまざまな古式を伝える。県の無形民俗文化財に指定されている。

山手の神事として斎行され、氏子などが山に立ち入って年中の薪を苅り取り、炭を焼き出し、田地の肥草を苅り取ることの報恩として奉仕する。

大幟と神輿は両社から輪番で出され、中間地点にある平ヶ崎馬場へ向かう。流鏑馬は形式だけで矢は射ない。

川上荘22ヶ村の総社として、当番村西組「みこし」、北組「おどり組」、川登り組「さんやれ」の順に祭礼が執り行われる。

境内社に、厳島社(市杵嶋姫命。相殿に田心比売命)、田部神社(大国主大神)、稲荷社(倉稲魂命。相殿に大田命・大宮姫命)、北野社(菅原道真公)がある。

このうち、厳島社は天正年間(1573年)、竹生島より御神霊を遷し祀り、辨財天と称し、北仰一村の産土神である。享和3年(1803年)、再建された。

稲荷社は、正徳年間(1711年)、彦根藩家臣宅より遷座したと伝わる。北野社は、寛永年間(1624年-1645年)、時の神主荻野正恵が勧請したという。

田部神社は応仁の乱により焼失し、当社境内に移された。旧地は現在地の西1キロほどの田上森。現在は当社の御旅所になっている。

この田部神社が、『延喜式神名帳』にある「田部神社(近江国・高島郡)」に比定される式内社(小社)の論社。

石神で、大将軍とも称している。御祭神の異説に、大荒田別命・饒速日命などがある。式内社「田部神社」の論社は他に、安曇川町田中の佐田神社がある。

【ご利益】
一族・子孫繁栄、地域安全、家内安全、厄災除け
津野神社 滋賀県高島市今津町北仰
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