天智朝の創立、大処郷の総社、境内に南北朝期勧請の摂社酒波神社
[住所]滋賀県高島市マキノ町森西175
[電話]-
大處神社(おおところじんじゃ)は、滋賀県高島市マキノ町森西にある神社。国道161号線の湖北バイパスを沢の交差点で県道287号線を北進。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「大處神社(近江国・高島郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
飛鳥時代、第38代天智天皇9年(671年)の創祀と伝わる。もとは国主大明神と称して、大地主命すなわち大国主命の荒魂を祀る。
この地は往古の高島郡十郷の一つである大處郷(大処郷)と伝えられ、その総社である。
社伝によれば、当社地及びその周辺で大地主大神の営田の時、白猪・白馬・白鶏により御歳神を祀ったため、この縁故で祈年祭には献猪の式があったという。
猪のない時は調布8反により、これに代えてきたが、現在では途絶えているという。正月元旦祭の御供調理は、古代より宮中、伊勢神宮にちなんだ特殊神饌を奉献している。
明治9年(1876年)、村社に列し、明治14年(1881年)には郷社に昇格。明治45年(1912年)、神饌幣帛料供進社に指定された。例祭は4月22日。社家は峯森氏。
境内社に、酒波神社・稲荷神社がある。摂社の酒波神社は、南北朝時代の貞和5年(1349年)の勧請だという。
当時酒波より勧請の途中、新保村で村人などが笹粽、濁酒、鮒ずし、大豆、大根漬などを供えたことより、今も例祭の時、還り馬場の神輿に進献の例が残っている。
この酒波神社が『延喜式神名帳』にある「日置神社(近江国・高島郡)」に比定される式内社(小社)の論社。というよりも後継社か。
式内社「日置神社」の論社は他に、今津町酒波の式内同名神社がある。
本社である当社と、それほど規模の変わらない酒波神社の社殿が並んで立っており、その左右に、カツラの巨木がある。
右側のカツラは幹周5.16メートル、樹高26メートル。左側のカツラは幹周4.76メートル、樹高23メートル。
なお、当社鳥居前には薬師堂がある。この一帯に往時、森西城が築かれていたという。現在も堂の裏手には高さ1.5メートルほどの土塁が残っている。
【ご利益】
地域安全、家内安全

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大處神社(おおところじんじゃ)は、滋賀県高島市マキノ町森西にある神社。国道161号線の湖北バイパスを沢の交差点で県道287号線を北進。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「大處神社(近江国・高島郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
飛鳥時代、第38代天智天皇9年(671年)の創祀と伝わる。もとは国主大明神と称して、大地主命すなわち大国主命の荒魂を祀る。
この地は往古の高島郡十郷の一つである大處郷(大処郷)と伝えられ、その総社である。
社伝によれば、当社地及びその周辺で大地主大神の営田の時、白猪・白馬・白鶏により御歳神を祀ったため、この縁故で祈年祭には献猪の式があったという。
猪のない時は調布8反により、これに代えてきたが、現在では途絶えているという。正月元旦祭の御供調理は、古代より宮中、伊勢神宮にちなんだ特殊神饌を奉献している。
明治9年(1876年)、村社に列し、明治14年(1881年)には郷社に昇格。明治45年(1912年)、神饌幣帛料供進社に指定された。例祭は4月22日。社家は峯森氏。
境内社に、酒波神社・稲荷神社がある。摂社の酒波神社は、南北朝時代の貞和5年(1349年)の勧請だという。
当時酒波より勧請の途中、新保村で村人などが笹粽、濁酒、鮒ずし、大豆、大根漬などを供えたことより、今も例祭の時、還り馬場の神輿に進献の例が残っている。
この酒波神社が『延喜式神名帳』にある「日置神社(近江国・高島郡)」に比定される式内社(小社)の論社。というよりも後継社か。
式内社「日置神社」の論社は他に、今津町酒波の式内同名神社がある。
本社である当社と、それほど規模の変わらない酒波神社の社殿が並んで立っており、その左右に、カツラの巨木がある。
右側のカツラは幹周5.16メートル、樹高26メートル。左側のカツラは幹周4.76メートル、樹高23メートル。
なお、当社鳥居前には薬師堂がある。この一帯に往時、森西城が築かれていたという。現在も堂の裏手には高さ1.5メートルほどの土塁が残っている。
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