半島との交通の要衝の兵主神か? 旧国富庄4ヶ村の総社
[住所]福井県小浜市奈古62-27
[電話]-
阿奈志神社(あなしじんじゃ)は、福井県小浜市奈古にある神社。小浜線の小浜駅の北東。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 北陸道神 若狭国 遠敷郡「阿奈志神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
奈良時代の天応元年(781年)、三位中将源義昌が若狭国遠敷郡天ヶ城山に、大己貴命を祀ったのが起源だという。
社名の阿奈志は、穴石とも、穴師とも解釈される。穴石であれば、伊賀に穴石神社があり、穴師であれば、大和の穴師坐兵主神社に通じる。
異国より王が来訪し、当地で身罷ったので、塚を造り、その墓の中に黄金の鶏が埋められた、という伝承が残る。
若狭湾沿岸に分布する鶏説話の伝承の一つと考えられている。当地を含む小浜は半島との交流の要所の一つ。
鶏の話は新羅からの渡来人が持ち込んだものともされ、兵主神や、産鉄氏族である天日槍命と関連づける向きもある。
第62代村上天皇の御代、平安時代の天徳2年(985年)、奈胡村に社殿を建立して、遷座した。
羽賀・次吉・熊野・奈胡の4ヶ村、国富庄の総社として山王宮(山王社・山王権現)とも尊称された。本地は医王(薬師)菩薩。
一説に、天暦元年(947年)8月下旬に羽賀寺の山から青竜が出て洪水となり、山が崩れた。翌天暦2年(948年)、羽賀寺建立の時に山王権現を奈胡村に遷座したとも。
その時、奈胡村の住人晴俊を神主とすることが羽賀寺の坊中より定められた。南北朝時代の康暦2年(1380年)、沙弥大西が神田を寄進した。
室町時代の永享元年(1429年)、再興され、そのとき宝聚院住持の定乗が遷宮などを執行した。羽賀寺が別当だった。
また、文明年間(1469年-1487年)には粟屋国春が御供米料を寄進した。戦国時代の元亀年間(1570年-1573年)には中山縣秀(山県秀政)が御供米料を寄進した。
宮座をめぐって氏子圏の奈胡・熊野・羽賀・次吉の4ヶ村は争いを繰返していたが、江戸時代前期の寛文年間(1661年-1673年)より各村交代して勤仕するようになった。
奈胡村の庄屋和久田氏は、延宝5年(1677年)には御供米田1反、元禄3年(1690年)には1反3畝10歩の田地を寄進した。
江戸時代中期の宝永8年(1711年)と明和3年(1766年)に石燈籠が寄進された。
当社禰宜家は奈胡村竜雲寺の檀家だったが、明治元年(1868年)の太政官布告で寺方より離檀した。
明治4年(1871年)、小浜県から郷社に列せられたが、後に福井県から村社に列せられ、大正元年(1912年)8月26日に神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和3年(1928年)、御大典記念の社標が建立され、昭和31年(1956年)に鳥居などが奉納された。
例祭は5月1日と10月1日。近世までは4月・9月の初申日だった。現在の神事次第は梅宮大社の祠官家橘家流に基づくという。
境内社に姫宮神社(姫宮明神)がある。少し離れた羽賀宮神社(下照姫命)とは姉妹神と伝えられている。当社の妃神を祀ったものと考えられている。
なお、 愛知県知多郡美浜町にも当社と同名の神社がある。
【ご利益】
産業振興、武運長久・勝運
【関連記事】
・福井県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、福井県に鎮座している神社の一覧
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阿奈志神社(あなしじんじゃ)は、福井県小浜市奈古にある神社。小浜線の小浜駅の北東。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 北陸道神 若狭国 遠敷郡「阿奈志神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
奈良時代の天応元年(781年)、三位中将源義昌が若狭国遠敷郡天ヶ城山に、大己貴命を祀ったのが起源だという。
社名の阿奈志は、穴石とも、穴師とも解釈される。穴石であれば、伊賀に穴石神社があり、穴師であれば、大和の穴師坐兵主神社に通じる。
異国より王が来訪し、当地で身罷ったので、塚を造り、その墓の中に黄金の鶏が埋められた、という伝承が残る。
若狭湾沿岸に分布する鶏説話の伝承の一つと考えられている。当地を含む小浜は半島との交流の要所の一つ。
鶏の話は新羅からの渡来人が持ち込んだものともされ、兵主神や、産鉄氏族である天日槍命と関連づける向きもある。
第62代村上天皇の御代、平安時代の天徳2年(985年)、奈胡村に社殿を建立して、遷座した。
羽賀・次吉・熊野・奈胡の4ヶ村、国富庄の総社として山王宮(山王社・山王権現)とも尊称された。本地は医王(薬師)菩薩。
一説に、天暦元年(947年)8月下旬に羽賀寺の山から青竜が出て洪水となり、山が崩れた。翌天暦2年(948年)、羽賀寺建立の時に山王権現を奈胡村に遷座したとも。
その時、奈胡村の住人晴俊を神主とすることが羽賀寺の坊中より定められた。南北朝時代の康暦2年(1380年)、沙弥大西が神田を寄進した。
室町時代の永享元年(1429年)、再興され、そのとき宝聚院住持の定乗が遷宮などを執行した。羽賀寺が別当だった。
また、文明年間(1469年-1487年)には粟屋国春が御供米料を寄進した。戦国時代の元亀年間(1570年-1573年)には中山縣秀(山県秀政)が御供米料を寄進した。
宮座をめぐって氏子圏の奈胡・熊野・羽賀・次吉の4ヶ村は争いを繰返していたが、江戸時代前期の寛文年間(1661年-1673年)より各村交代して勤仕するようになった。
奈胡村の庄屋和久田氏は、延宝5年(1677年)には御供米田1反、元禄3年(1690年)には1反3畝10歩の田地を寄進した。
江戸時代中期の宝永8年(1711年)と明和3年(1766年)に石燈籠が寄進された。
当社禰宜家は奈胡村竜雲寺の檀家だったが、明治元年(1868年)の太政官布告で寺方より離檀した。
明治4年(1871年)、小浜県から郷社に列せられたが、後に福井県から村社に列せられ、大正元年(1912年)8月26日に神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和3年(1928年)、御大典記念の社標が建立され、昭和31年(1956年)に鳥居などが奉納された。
例祭は5月1日と10月1日。近世までは4月・9月の初申日だった。現在の神事次第は梅宮大社の祠官家橘家流に基づくという。
境内社に姫宮神社(姫宮明神)がある。少し離れた羽賀宮神社(下照姫命)とは姉妹神と伝えられている。当社の妃神を祀ったものと考えられている。
なお、 愛知県知多郡美浜町にも当社と同名の神社がある。
【ご利益】
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