瓊々杵尊の降臨地、成務朝に合祀、春神楽の舞と三千日垢離成就塔
[住所]宮崎県宮崎市南方町御供田1192
[電話]0985-29-5105
奈古神社(なごじんじゃ)は、宮崎県宮崎市南方町御供田にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。
日豊本線の蓮ヶ池駅の西、国道10号線から県道9号線を西進する。西都原古墳群の南、約20キロほど。
当社の縁起によれば、瓊々杵尊は日向国高千穂槵觸の峯に天降り、国内を巡覧し、当地に至り、「この地朝日の直刺す国夕日の日照る国也、これは何山の領域か」と問うた。
そこで、「事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)の領地」との答えを得た。瓊々杵尊は吾田長屋笠狭の御碕に至り、天神地祗を祀った。
『古事記』に「笠紗之御前」、『日本書紀』に「笠狹之碕」とある、瓊々杵尊の降臨地について、諸説ある。
降臨地は宮崎県、鹿児島県などいくつか候補があるが、「笠紗」「笠狹」の地名はすでに失われて久しく、特定できないという。
近代に鹿児島県で笠沙村・笠沙町が生まれたが、これは付会とされる。しかし、宮崎県のこの西都原古墳群近くには「笠紗之御前」伝承を伝える神社が複数ある。当社もその一つ。
当社は後に、第13代成務天皇13年、武内宿祢が磐余彦命・葺不合命を併せて祀ったという。
古くは奈古八幡宮とも長屋神社とも呼ばれ、南方・池内・上北方・下北方・花ヶ島・江平6ヶ村の産土神として崇敬されてきた。
領主伊東氏やその家臣から厚く尊崇され、度々社領の寄進があり、江戸時代初期には神領10石を有していた。
その後、延岡藩内でも有数の神社として、毎年9月15日の大祭には延岡藩代官が社参、後に藩主内藤氏の代参があり、これより内藤氏の祈願所となった。
明治維新後、現社号に改称した。明治4年(1871年)、村社に列し、その後、郷社に昇格したようだ。
御祭神は、天津彦々火瓊々杵尊・鵜葺草葺不合尊(瓊々杵尊の孫、神武天皇の父)、神日本磐余彦天皇(神武天皇)。
例祭は9月15日。藩政以来の伝統で、近代になっても、大正末期(1926年)まで、流鏑馬や競馬が行われていたという。
3月最終日曜日い春祭があり、豊作や豊猟(漁)を祈願し感謝する春神楽の舞(鬼神の舞)が行われる。7月下旬の日曜日に夏祭があり、子供神輿が氏子区域を練り歩く。
境内には三千日垢離成就塔といわれる石碑が存在するが、これは戦国期に都於郡城主伊東氏より当社宮司へ嫁いだ女性が、夫の死後女体で神事を司るようになった。
海水での水垢離(みずごり)を3000日行ったところ、ついに胸毛が生えて男体のようになったという伝説によるものである。
また社殿後方には前方後円墳があり、当社御祭神の瓊々杵尊の御陵と伝えられている。境内末社に、愛宕社(軻遇土尊)がある。また下記の末社がある。
右末社
・若宮八幡宮(長狭命)
・小藪稲荷神社(宇賀魂命)
中末社
・北神皇后神社(玉依姫尊)
・正八幡宮(火火出見命)
左末社
・前神王社(豊磐間戸命)
・前神王社(櫛磐間戸命)
・大将軍神社(磐長姫命)
【ご利益】
豊作・厄祓・家内安全・願い成就(公式HP)
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[電話]0985-29-5105
奈古神社(なごじんじゃ)は、宮崎県宮崎市南方町御供田にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。
日豊本線の蓮ヶ池駅の西、国道10号線から県道9号線を西進する。西都原古墳群の南、約20キロほど。
当社の縁起によれば、瓊々杵尊は日向国高千穂槵觸の峯に天降り、国内を巡覧し、当地に至り、「この地朝日の直刺す国夕日の日照る国也、これは何山の領域か」と問うた。
そこで、「事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)の領地」との答えを得た。瓊々杵尊は吾田長屋笠狭の御碕に至り、天神地祗を祀った。
『古事記』に「笠紗之御前」、『日本書紀』に「笠狹之碕」とある、瓊々杵尊の降臨地について、諸説ある。
降臨地は宮崎県、鹿児島県などいくつか候補があるが、「笠紗」「笠狹」の地名はすでに失われて久しく、特定できないという。
近代に鹿児島県で笠沙村・笠沙町が生まれたが、これは付会とされる。しかし、宮崎県のこの西都原古墳群近くには「笠紗之御前」伝承を伝える神社が複数ある。当社もその一つ。
当社は後に、第13代成務天皇13年、武内宿祢が磐余彦命・葺不合命を併せて祀ったという。
古くは奈古八幡宮とも長屋神社とも呼ばれ、南方・池内・上北方・下北方・花ヶ島・江平6ヶ村の産土神として崇敬されてきた。
領主伊東氏やその家臣から厚く尊崇され、度々社領の寄進があり、江戸時代初期には神領10石を有していた。
その後、延岡藩内でも有数の神社として、毎年9月15日の大祭には延岡藩代官が社参、後に藩主内藤氏の代参があり、これより内藤氏の祈願所となった。
明治維新後、現社号に改称した。明治4年(1871年)、村社に列し、その後、郷社に昇格したようだ。
御祭神は、天津彦々火瓊々杵尊・鵜葺草葺不合尊(瓊々杵尊の孫、神武天皇の父)、神日本磐余彦天皇(神武天皇)。
例祭は9月15日。藩政以来の伝統で、近代になっても、大正末期(1926年)まで、流鏑馬や競馬が行われていたという。
3月最終日曜日い春祭があり、豊作や豊猟(漁)を祈願し感謝する春神楽の舞(鬼神の舞)が行われる。7月下旬の日曜日に夏祭があり、子供神輿が氏子区域を練り歩く。
境内には三千日垢離成就塔といわれる石碑が存在するが、これは戦国期に都於郡城主伊東氏より当社宮司へ嫁いだ女性が、夫の死後女体で神事を司るようになった。
海水での水垢離(みずごり)を3000日行ったところ、ついに胸毛が生えて男体のようになったという伝説によるものである。
また社殿後方には前方後円墳があり、当社御祭神の瓊々杵尊の御陵と伝えられている。境内末社に、愛宕社(軻遇土尊)がある。また下記の末社がある。
右末社
・若宮八幡宮(長狭命)
・小藪稲荷神社(宇賀魂命)
中末社
・北神皇后神社(玉依姫尊)
・正八幡宮(火火出見命)
左末社
・前神王社(豊磐間戸命)
・前神王社(櫛磐間戸命)
・大将軍神社(磐長姫命)
【ご利益】
豊作・厄祓・家内安全・願い成就(公式HP)
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