天孫に愛されなかった磐長姫命が笠狭から去った地、山陵や円墳も
穂北神社 宮崎県西都市穂北935
[住所]宮崎県西都市穂北935
[電話]0983-42-3934

穂北神社(ほきたじんじゃ)は、宮崎県西都市穂北にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。

一ツ瀬川東岸。県道313号線と県道22号線の交差点の近く。一ツ瀬川を渡り、国道219号線の米良街道を越えて、南に3キロほどで、西都原古墳群がある。

地内にはさらに、国の史跡の千畑古墳や茶臼原古墳群、県の史跡の上穂北古墳などが点在している。

創立年代は不詳。古老の伝えによれば、天津彦瓊瓊岐命が笠狭の碕に降臨した際、大山祇神の二女を妃とし、長女である磐長姫命を寵愛しなかった。

そのため、磐長姫命は笠狭の地を隔たること20丁あまり、五十鈴川(現 一ツ瀬川)の川上に去り、当地に鎮座した。

この神殿には古来より神像と、磐長姫命の形見の神鏡が奉安されていた。

「穂北」という地名や社名は、妹の木花咲耶媛命が姉の磐長姫命に稲穂を五十鈴川に流して送ったところ、北岸に着いたことによるという。

付近に磐長姫命の山陵として、5基の円墳があり、その最大のものが磐長姫命の山陵と伝えている。

また「穂北」については、一説に、西都原の男狭穂塚女狭穂塚両古墳の北にあるからだともいう。

『古事記』に「笠紗之御前」、『日本書紀』に「笠狹之碕」とある、瓊々杵命の降臨地について、諸説ある。

降臨地は宮崎県、鹿児島県などいくつか候補があるが、「笠紗」「笠狹」の地名はすでに失われて久しく、特定できないという。

近代に鹿児島県で笠沙村・笠沙町が生まれたが、これは付会とされる。しかし、宮崎県のこの西都原古墳群近くには「笠紗之御前」伝承を伝える神社が複数ある。当社もその一つ。

中世、土持氏の領地だったが、鎌倉時代初期の建久年間(1190年-1199年)、土持氏は伊東氏により亡ぼされた。

以降は伊東氏が領有し、当社を篤く尊信し、供田を寄進して奉祭した。安土桃山時代の天正5年(1577年)、伊東氏は没落した。

代わって延岡藩主高橋氏の領有となり、さらに慶長5年(1600年)の関ヶ原の乱により、高橋氏は敗れ、有馬直純が延岡藩主となり、領有した。

移り変わりがあっても、領主の当社に対する供田の寄進は従来通り行われた。しかし、慶長5年、火災に遭い、御形見の神鏡・宝物・古書などすべて焼失した。

わずかに磐長姫命の神像半体を存するのみとなった。江戸時代後期の天保6年(1835年)3月6日、再興された。

その後、天保12年(1841年)8月15日にも造営があった。明治になり、村社に列し、明治7年(1874年)5月16日、明治12年(1879年)10月30日と造営が行われた。

明治40年(1907年)2月、神饌幣帛料供進社に指定された。明治43年(1910年)5月、鹿島神社・尾崎神社・二柱神社・北嶽神社・大年神社・香取神社・諏訪神社・山の神神社を合祀。

主祭神は磐長姫命で、現在までに、伊邪那岐尊伊邪那美尊猿田彦命豊斟渟尊経津主命建御名方命武甕槌命大年神・大山津見命・素盞男命稲田姫命を合わせて祀る。

例祭は11月15日で、穂北神楽が奉納される。南方神社で奉納される南方神楽と同一系統だという。境内神社として五鈴神社がある。

【ご利益】
良縁、縁結び、諸願成就
穂北神社 宮崎県西都市穂北
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