物部系の参河国造初代の墳墓・於新造古墳に隣接、後に春日大神、
謁播神社 愛知県岡崎市東阿知和町北山39
[住所]愛知県岡崎市東阿知和町北山39
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謁播神社(あつわじんじゃ/あちわじんじゃ)は、愛知県岡崎市東阿知和町北山にある神社。矢作川の支流、青木川の北岸。東阿知和町宮前交差点を北進。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 三河国 額田郡「謁播神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

創祀年代は不詳。御祭神は知波夜命(ちはやのみこと)。『先代旧事本紀』巻10国造本紀によれば、参河国造の初代で、物部氏の祖出雲色大臣の五世孫。

西三河に一大勢力をもった旧国造の系譜に連なる物部氏一族の奉祭した社と考えられている。

当社の後背地の北山には牛下山古墳があり、知波夜命の墳墓であると伝えられている。「北山」は、御祭神が「来た山」の意だという。

牛下山古墳は於新造古墳とも呼ばれ、西阿知和町於新造の丘陵上にある帆立貝形前方後円墳で、全長42メートル。

出土した円筒埴輪は、矢作川流域では最古に位置づけられるもので、4世紀後半の築造と考えられている。

古墳の周囲半径120メートルほどの範囲内に、北山一号-三号墳、下山田一号-三号墳、東簗井場古墳などが確認されている。

『大同類聚方』によれば、「穴加差薬、三河國額田郡謁播神社之宮造額田部連長之薬方」とあり、当社が薬に関係していたこと、当社宮造が額田部連だったという。

白鳳年間(672年-685年)、第39代弘文天皇が参河に行幸し、その時大変な悪天候に襲われたものの、突如紫雲が空中にたなびき、妙音が放たれた。

すると暗雲はたちまちに消え去って、天皇は危難から救われた。これが謁播明神の神威だとされ、天皇は侍臣の1人を当地に残し、この神を祀らせるようになったという。

この侍臣の裔が旧社家の安藤氏で、藤原氏の系統との伝えがある。後述するように、春日色を強めるようになったきっかけだと思われる。

『日本文徳天皇実録』仁寿元年(851年)に「謁播神に従五位下を授く」とある。『三河国内神明名帳』には「正三位 謁磐大明神」とある。

『式内社調査報告』によれば、戦国時代、神主安藤家の足助移住に伴い、足助に分祀された。それが現在の川原宮・謁盤神社だという。

『三河国二葉松』によれば、近世には春日神社と称した。別当は正蓮寺だった。あるいは、明治に入って神仏分離されるまでは、隣接する松林寺の社僧が祭事を行ったという。

明治5年(1872年)、郷社に列した。明治40年(1907年)、神饌幣帛料供進社に指定された。

昭和21年(1946年)の旧社格制度の廃止にともない、愛知県神社庁神社等級規定により十等級に認定された。

平成14年(2002年)9月22日、本殿覆殿、幣殿、社務所の増改築事業が竣工し、同日に八等級に昇格した。

当社には特殊神事として「雨乞神事」が伝わる。旱魃時に境内の池の水を農耕作業姿の氏子が汲み干すというもの。「大旱の祭」と呼ばれ、明治維新後も4回行われた。

例祭は10月。2月には祈年祭が、11月23日には新嘗祭がある。東阿知和町では大正時代(1912年-1926年)から、氏子有志で構成された雅楽の楽人会が引き継がれている。

毎年この3回の祭礼で、巫女舞と地元楽人会による雅楽演奏が奉納される。なお、境内には、岡崎城の「念沸堂赤門」を移築したと伝わる門が神門として建っている。

【ご利益】
地域安全、家内安全、厄災除け
謁播神社 愛知県岡崎市東阿知和町北山
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