垂仁朝の創祀、土師氏の痕跡・古窯跡も、名勝旧跡の標柱
[住所]愛知県豊田市野見山町4-21
[電話]0565-58-1516
野見神社(のみじんじゃ)は、愛知県豊田市野見山町にある神社。矢作川東岸、川沿いの県道340号から進む。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 三河国 賀茂郡「野見神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
標高119メートルの野見山の上。神門前には相撲の祖神らしく土俵があり、境内左手には「神石」がある。
社伝によれば、第11代垂仁天皇22年の創祀。御祭神は野見宿禰。出雲国造氏と同族で、天穂日命十四世孫。飯石郡野見の地に誕生したためにその名がついた。
野見宿禰は、垂仁天皇の御代、日本初の本格的な相撲を取ったこと、また、土師部を率いて土偶(はにわ)を作り、殉死を禁じたことで知られる。
社伝通りであれば、野見宿禰はちょうど活躍している頃で、当社はその生祠が起源、という可能性があるが、少し早すぎるか。
ただ実際、土師氏の祖神でもあり、野見山の山頂には土器を焼いた跡が残っているという。矢作川沿いにはいくつかの古窯跡もある。
『参河国内神明帳』に「正五位 下野見天神」と記され、西三河の著名の古社だといい、中世には高橋蔵人・丸根美作守らが社領を寄進したという。
戦国時代の弘治2年(1556年)3月、社殿を焼失し、社宝・古記録を失った。当時天台宗弥勒山牛寺などの神宮寺があったが、永禄年間(1558年-1570年)に兵火で焼失。
慶長年間(1596年-1615年)、田中兵部少輔吉政が社領を安堵し、寺部城主渡辺氏も代々崇敬し、渡辺藩の武運長久・領内安全の祈願所だったという。
社主鈴木氏は紀州熊野の人だったが、 大阪城落城後、当地に来て社主となったという。代々の社主は当社及び兵主神社の祠官だった。
江戸時代後期の天保3年(1832年)12月、渡辺兵庫頭規綱から大石灯籠が寄進され、また天保14年(1843年)11月、家臣松本又右ェ門他20名で大石灯籠が寄進された。
また、領主規綱の時、社主鈴木信濃正藤原重光は、野見山の一部の1反6畝20歩を宅地として下附された。
近世には、野見天神・能見村天王・野見山天王などと呼ばれたが、明治になり、村社に列し、現社号に改称した。
明治41年(1908年)10月、神饌幣帛料供進社に指定され、大正5年(1916年)10月、名勝旧跡として標柱が建てられ、昭和17年(1942年)10月には郷社に昇格した。
主祭神は野見宿禰だが、現在までに相殿右に大己貴命、相殿左に素盞嗚尊を祀る。例祭は10月17日。
昭和52年(1977年)10月には本殿以下の建物を改築した。境内社は一宇だが、下記の神社を合祀している。
秋葉社(迦具土神)、金刀比羅社(大物主神)、御鍬社(豊受姫神)、稲荷社(保食神)、八王子社(国狭槌神)、胸形社(市杵島姫命)、冨士浅間社(木花咲耶姫命)
境外社として、野見山町3丁目に山神社がある。神紋は梅鉢紋。梅紋は天神・天満宮の紋だが、当社御祭神の野見宿禰の後裔が菅原道真にあたる。
社宝として、玉田永教が文化4年(1807年)3月に著した『野見神社縁起書』をはじめ、棟札その他多くが現存されている。
なお、式内社「野見神社」の論社は他に、市内榊野町見切に当社および式内同名神社がある。
【ご利益】
身体壮健、武運長久・勝運、産業振興
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・愛知県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、愛知県に鎮座している神社の一覧
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野見神社(のみじんじゃ)は、愛知県豊田市野見山町にある神社。矢作川東岸、川沿いの県道340号から進む。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 三河国 賀茂郡「野見神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
標高119メートルの野見山の上。神門前には相撲の祖神らしく土俵があり、境内左手には「神石」がある。
社伝によれば、第11代垂仁天皇22年の創祀。御祭神は野見宿禰。出雲国造氏と同族で、天穂日命十四世孫。飯石郡野見の地に誕生したためにその名がついた。
野見宿禰は、垂仁天皇の御代、日本初の本格的な相撲を取ったこと、また、土師部を率いて土偶(はにわ)を作り、殉死を禁じたことで知られる。
社伝通りであれば、野見宿禰はちょうど活躍している頃で、当社はその生祠が起源、という可能性があるが、少し早すぎるか。
ただ実際、土師氏の祖神でもあり、野見山の山頂には土器を焼いた跡が残っているという。矢作川沿いにはいくつかの古窯跡もある。
『参河国内神明帳』に「正五位 下野見天神」と記され、西三河の著名の古社だといい、中世には高橋蔵人・丸根美作守らが社領を寄進したという。
戦国時代の弘治2年(1556年)3月、社殿を焼失し、社宝・古記録を失った。当時天台宗弥勒山牛寺などの神宮寺があったが、永禄年間(1558年-1570年)に兵火で焼失。
慶長年間(1596年-1615年)、田中兵部少輔吉政が社領を安堵し、寺部城主渡辺氏も代々崇敬し、渡辺藩の武運長久・領内安全の祈願所だったという。
社主鈴木氏は紀州熊野の人だったが、 大阪城落城後、当地に来て社主となったという。代々の社主は当社及び兵主神社の祠官だった。
江戸時代後期の天保3年(1832年)12月、渡辺兵庫頭規綱から大石灯籠が寄進され、また天保14年(1843年)11月、家臣松本又右ェ門他20名で大石灯籠が寄進された。
また、領主規綱の時、社主鈴木信濃正藤原重光は、野見山の一部の1反6畝20歩を宅地として下附された。
近世には、野見天神・能見村天王・野見山天王などと呼ばれたが、明治になり、村社に列し、現社号に改称した。
明治41年(1908年)10月、神饌幣帛料供進社に指定され、大正5年(1916年)10月、名勝旧跡として標柱が建てられ、昭和17年(1942年)10月には郷社に昇格した。
主祭神は野見宿禰だが、現在までに相殿右に大己貴命、相殿左に素盞嗚尊を祀る。例祭は10月17日。
昭和52年(1977年)10月には本殿以下の建物を改築した。境内社は一宇だが、下記の神社を合祀している。
秋葉社(迦具土神)、金刀比羅社(大物主神)、御鍬社(豊受姫神)、稲荷社(保食神)、八王子社(国狭槌神)、胸形社(市杵島姫命)、冨士浅間社(木花咲耶姫命)
境外社として、野見山町3丁目に山神社がある。神紋は梅鉢紋。梅紋は天神・天満宮の紋だが、当社御祭神の野見宿禰の後裔が菅原道真にあたる。
社宝として、玉田永教が文化4年(1807年)3月に著した『野見神社縁起書』をはじめ、棟札その他多くが現存されている。
なお、式内社「野見神社」の論社は他に、市内榊野町見切に当社および式内同名神社がある。
【ご利益】
身体壮健、武運長久・勝運、産業振興
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