山城の交野ヶ原、郊祀壇祭祀の地の説も、江戸中期の二間社本殿
天神社 京都府京田辺市松井里ケ市1
[住所]京都府京田辺市松井里ケ市1
[電話]0774-63-3956

天神社(てんじんじゃ/あまつかみのやしろ)は、京都府京田辺市松井里ケ市にある神社。松井天神社とも。八幡京田辺JCの近く。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 綴喜郡「天神社」に比定される式内社(小社)の論社。

創祀年代は不詳。社伝によれば、もとは松井交野ヶ原に創祀されたものを、現在地に移したという。

長岡京遷都の翌年、奈良時代末期の延暦4年(785年)、第50代桓武天皇が天神を交野柏原に祀ったことが『続日本紀』にみえる。

この交野は現在の枚方市樟葉の交野天神社などとされるが、ここ松井にも交野ヶ原・柏原の地名があり、社伝との関係が注目される。

ただし、桓武天皇の生母である高野新笠は百済系渡来人の出身で、交野ヶ原と呼ばれていた枚方市には、百済系渡来人の百済王氏が居住した。

また、桓武朝の重臣で右大臣、天神祭祀の勅使を務め、その妻は百済王氏出身である藤原継縄の別邸があった。

これらから考えると、桓武天皇の郊祀壇祭祀はやはり現在の枚方市であることを動かすのは難しいという。

ただ、江戸時代中期の『山城志』によれば、戦国時代の明応2年(1493年)9月造営の社殿棟木に、「延暦24年(805年)2月2日草創」とあるという。

延暦4年の郊祀壇祭祀に関係あるかどうかは不明だが、同じ延暦年間、この時は平安時代に突入しているが、その際には存在していたようだ。

往時は、宮寺として中性院がおかれていた。しかし中性院は、明治維新の神仏分離により明治5年(1872)に廃寺となった。

その際、不動明王、薬師如来、歓喜王、役行者などの諸像が当社に委託され、現在に至るまで大切に保管されている。

当社の御祭神は、天照大神伊弉諾尊。異説に、『神名帳考証』では天津彦根命としている。例祭は10月。

境内正面に入母屋造、瓦葺の拝殿が、その奥に朱塗りの二間社流造、檜皮葺の本殿が、いずれも東面して建つ。

現在の本殿は、享保2年(1717年)、それまで2棟であったものを1棟にしたもので、山城地方に少ない二間社として貴重。府登録文化財である。

平成5年(1993年)、2年に渡る神殿の修復、彩色の復元、拝殿の建造が終わり、当時の鮮やかな色が今に蘇った。

境内社に、愛宕・厳島・松尾・熊野・春日・八幡、そして水分の各社が祀られている。他に、神武天皇・伊勢神宮・明治天皇の遙拝所がある。

なお、式内社「天神社」の論社は他に、田辺棚倉の棚倉孫神社、天王高ケ峯の朱智神社がある。

また、同じく綴喜郡の式内社に「くにつやしろ」とも読まれる地祇神社があり、当社と対をなしているか。

【ご利益】
開運招福、一族・子孫繁栄
天神社 京都府京田辺市松井里ケ市
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