往時の息長山普賢教法寺の鎮守か? 観音寺境内の式内
地祇神社 京都府京田辺市普賢寺
[住所]京都府京田辺市普賢寺下大門
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地祇神社(ちぎじんじゃ)は、京都府京田辺市普賢寺下大門、観音寺の境内にある神社。京奈和自動車道の東、県道65号線の北。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 綴喜郡「地祇神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

創祀年代は不詳。異説はあるものの、大御堂とも呼ばれた現在の観音寺の鎮守だったとされる。

現在の観音寺は、言宗智山派に属し、大御堂とも普賢寺とも呼ばれた。自伝によれば、第40代天武天皇の勅願による開基。

その後、奈良時代の天平16年(744年)、良弁僧正が再び造営し、伽藍を増築、親山寺を取り込み、息長山普賢教法寺と号した。

当社がその鎮守ということであれば、奈良期にそれまでに存在したものを遷座したか、普賢教法寺の鎮守として新たに創建されたか、ということになる。

観音寺の本尊はその天平期のものと考えられる国宝の十一面観音立像であること、背後の丘陵上から7-8世紀の瓦が多数出土し、塔心礎と思われる遺構が確認されている。

時期は不明だが、普賢教法寺はその後荒廃し、わずかに残った観音堂を本堂として、観音寺と改名したという。

当社の境内案内によれば、江戸時代中期の正徳元年(1711年)の『山州名跡志』には、権現大明神と地主権現の2柱が祀られたという。

『山城名跡巡行志』でも現社号を掲げ、「地主権現ノ社」と呼び、式内社に認定している。ただ、御祭神の具体的な神名は不詳とされることが多い。

現在は、活気長足比売命大国主命大山祇命を御祭神としている、とされるが、これは諸説を混在させた結果、ともされる。

当社の南西方約3キロの山中に鎮座する朱智神社の御祭神は、活気長足比売命の祖父である迦爾米雷王を祀る。

つまり、当地一帯は、息長氏との関係が深いところで、往時の普賢教法寺も息長山を号しており、神功皇后を主祭神とする理由はある。

『山城綴喜郡誌』では、当社御祭神は御霊天皇と称して継体天皇を祀り、もう一つは山王権現と称して神功皇后を祀る、としている。

ただ、社名は「ちのき」「くにつやしろ」「くにかみ」「つにつかみ」とも読まれたため、国つ神の系統なのではないか、との説もある。

なお、綴喜郡の式内社に、「あまつかみのやしろ」と読まれる「天神社」がある。論社に、市内松井の式内同名神社があり、当社と対をなしている可能性がある。

もとは観音寺境内の北東に祀られていたというが、戦国時代の天文年間(1532年-1555年)に本堂左側の小山の上の現在地に移された。

明治の初期には地主神社とも称したとされる。明治6年(1873年)、村社に列し、明治10年(1877年)、式内社に認定され、現社号が定着したようだ。

例祭は10月18日。摂社として、二つの祠があり、祈雨神社(天之水分神)と稲荷神社(豊宇気毘売神)である。

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地祇神社 京都府京田辺市普賢寺NO2
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