木津川の流れ橋近く、飛鳥朝の創建、もとは牛頭天王社
[住所]京都府八幡市上津屋里垣内77
[電話]075-981-9816
石田神社(いしだじんじゃ)は、京都府八幡市上津屋里垣内にある神社。第二京阪道路の八幡上津屋交差点から県道22号線で東進。木津川の流れ橋に近い。御朱印の有無は不明。
社伝「天王神社記」によれば、創建は飛鳥時代末期の大宝2年(72年)、現在地南東2キロの隣村、内里の山中に現れた素盞嗚神を上津屋の地に祀ったことに始まるという。
八幡市東部、木津川対岸の城陽市の里・浜・東の三集落の氏神で、かつては「牛頭天王社」と呼ばれてきた。御祭神は素盞嗚尊。
その後、平安時代末期の治承4年(1180年)、源三位頼政の兵乱で社殿は焼失、鎌倉時代初期の文治4年(1188年)、源頼朝によって神事料として土地が寄進され、再興。
建長4年(1252年)、神殿の再建があった。鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)、元弘の乱で笠置山へ参陣した際、楠正成が当社に立ち寄って、願文を奉納したともいう。
ただし、この際も炎上したとも。近年社殿から発見された棟札によれば、戦国時代の永禄元年(1558年)の社殿造営の後、定期的に檜皮の葺替え修理が行われた。
一間社流造の現本殿は、幕末の嘉永4年(1851年)造営。拝殿も同時期のもの。ただし、江戸時代中期の享保20年(1735年)再建時に葺いた刻銘入り鬼瓦を屋根に載せている。
拝殿正面奧に明和2年(1765年)の算額があるという。全国でも9番目の古さ。
その他、当社には1200点以上の古文書類が保存され、当社や上津屋地区の歴史を語る貴重な資料になっている。
その他、現在、神輿蔵となってる建物は、もと宮寺の福泉寺で薬師如来を祀っていた薬師堂で、明治の神仏分離令で、本尊は同里垣内の浄土宗西雲寺に移された。
神興蔵の横にある十三重の石塔は、南北朝時代の作と考えられている。末社として太神宮、香取神社、若宮神社(於岐津毘根命・田露毘古命・市杵嶋毘売命・五男神)がある。
鳥居をくぐるとモチの木があり、御神木として祀られている。他に境内には、桜、かえで、杉などの木々が植えられている。
なお、周辺には同名神社が多く、岩田里と岩田茶屋ノ前(岩田大将軍)の同名神社があり、いずれも式内論社。
【ご利益】
厄災除け、病魔退散、無病息災

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[電話]075-981-9816
石田神社(いしだじんじゃ)は、京都府八幡市上津屋里垣内にある神社。第二京阪道路の八幡上津屋交差点から県道22号線で東進。木津川の流れ橋に近い。御朱印の有無は不明。
社伝「天王神社記」によれば、創建は飛鳥時代末期の大宝2年(72年)、現在地南東2キロの隣村、内里の山中に現れた素盞嗚神を上津屋の地に祀ったことに始まるという。
八幡市東部、木津川対岸の城陽市の里・浜・東の三集落の氏神で、かつては「牛頭天王社」と呼ばれてきた。御祭神は素盞嗚尊。
その後、平安時代末期の治承4年(1180年)、源三位頼政の兵乱で社殿は焼失、鎌倉時代初期の文治4年(1188年)、源頼朝によって神事料として土地が寄進され、再興。
建長4年(1252年)、神殿の再建があった。鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)、元弘の乱で笠置山へ参陣した際、楠正成が当社に立ち寄って、願文を奉納したともいう。
ただし、この際も炎上したとも。近年社殿から発見された棟札によれば、戦国時代の永禄元年(1558年)の社殿造営の後、定期的に檜皮の葺替え修理が行われた。
一間社流造の現本殿は、幕末の嘉永4年(1851年)造営。拝殿も同時期のもの。ただし、江戸時代中期の享保20年(1735年)再建時に葺いた刻銘入り鬼瓦を屋根に載せている。
拝殿正面奧に明和2年(1765年)の算額があるという。全国でも9番目の古さ。
その他、当社には1200点以上の古文書類が保存され、当社や上津屋地区の歴史を語る貴重な資料になっている。
その他、現在、神輿蔵となってる建物は、もと宮寺の福泉寺で薬師如来を祀っていた薬師堂で、明治の神仏分離令で、本尊は同里垣内の浄土宗西雲寺に移された。
神興蔵の横にある十三重の石塔は、南北朝時代の作と考えられている。末社として太神宮、香取神社、若宮神社(於岐津毘根命・田露毘古命・市杵嶋毘売命・五男神)がある。
鳥居をくぐるとモチの木があり、御神木として祀られている。他に境内には、桜、かえで、杉などの木々が植えられている。
なお、周辺には同名神社が多く、岩田里と岩田茶屋ノ前(岩田大将軍)の同名神社があり、いずれも式内論社。
【ご利益】
厄災除け、病魔退散、無病息災

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