石田君の祖神、中世は物部系、惟喬親王の大将軍塚・御霊社
[住所]京都府八幡市岩田茶屋ノ前75
[電話]-
石田神社(いしだじんじゃ/いわたじんじゃ)は、京都府八幡市岩田茶屋ノ前にある神社。式内石田神社とも。第二京阪道路から八幡内里の交差点で県道282号線を東進。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 久世郡「石田神社」に比定される式内社(大社、月次・新嘗)の論社。近代社格では村社。
隣接して岩田大将軍の地であり、社頭の社標にも「岩田大将軍鎮座」とあるが、京都府神社庁の表記でも岩田茶屋ノ前としている。
岩田大将軍と岩田茶屋ノ前に二社の同名神社があるような記載もみられるが、それは同じことを言っており、当社のこと。ただ一社である。
奈良時代末期の延暦6年(787年)3月11日、山階の石田神を久世郡石田荘に遷座するようにとの神託があり、当地に勧請、創始された。
山階(山科)の石田神は不詳だが、石田の杜と呼ばれる地に遷座した天穂日命神社があり、やはり式内論社の一つ。
主祭神は五十日足彦命。第11代垂仁天皇の皇子で、『日本書紀』に「五十日足彦命、是子石田君の始祖なり」とある。ただその後、「石田君」に関する資料はなく、不詳。
相殿神について。まず饒速日命は、鎌倉時代初期の元治元年(1185年)、源頼朝に仕え軍功があった伊豆三島の住人である物部公宗が久世郡箕里荘を給わり、石田里に来住。
建久2年(1191年)、その遠祖である饒速日命を祀る社を建立し、降宮と称した。南北朝時代末期の明徳3年(1382年)、物部公経が当社境内に別殿を造立して遷座した。
惟喬親王は、第55代文徳天皇の第一皇子。東岩田の小字玉造に、親王の栖寓地があった。
親王没後の元慶3年(879年)、その子が遺命により父の調度品を埋めて塚を造った。ただし一般に、親王の没年は寛平9年(897年)とされる。
その塚が大将軍塚と呼ばれる小丘で、東に隣接した地の小字大將軍の地。往時は塚上に大竜王宮社と称する小祠があった。
大将軍塚はもともと惟喬親王の御霊社址と伝え、旱魃の時にはこの塚の周りを回って雨乞いを行った。
南北朝時代の暦応3年(1340年)、在地土豪の物部公實が当社境内に別殿を建てて、惟喬親王の御神霊は遷座した。ここで、御霊社とは分離したものか。
この2柱はいずれも、戦国時代の天文16年(1547年)、当社本殿再建に伴って相殿として祀られた。現在までに他に、天照大神・大山咋命を祀る。
江戸時代中期の『山城名跡巡行記』では、「御霊社 同村(岩田村)民居の北に在り。社南向。当社石田社歟(カ)。延喜式に云う久世郡石田神社 是郡相違」とある。
さらに、「又神祇拾遺(1663・江戸前期)に載る綴喜郡御霊歟、祀るは文太夫霊神文屋宮田丸と号す、御霊八座の一也。当村産沙神也」としている。
他の資料でも、近世の当社は御霊社、あるいは御霊神社と呼ばれていたようで、御祭神は文屋宮田麻呂とされていた。
文屋宮田麻呂、つまり文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。
承和10年(843年)、謀反の罪で伊豆国に流され、その地で没。死後、無実だったことが分かり、神泉苑御霊会で慰霊された。
現在も上御霊神社と下御霊神社で文大夫の神名で、御霊神八座として、祀られている。当社との関係は不詳。
ただし、上述のように、大将軍塚があり、それが御霊社と呼ばれていたことと関係していそうだ。明治6年(1873年)、当社は村社に列した。
明治8年(1875年)、塚上の小祠を境内に移し、水神社(速秋津彦命・速秋津姫命)と改称した。明治22年(1889年)、当社は御霊社から現社号へ改称した。
昭和9年(1934年)、その末社の水神社は室戸台風で倒壊したが、その後再建されたようだ。例祭は10月9日。安産のために巻く岩田帯は当社に由来すると伝わる。
なお、式内社「石田神社」の論社は先の天穂日命神社の他、岩田里に当社および式内同名神社がある。また、上津屋里垣内にも当社と同名の神社がある。
【ご利益】
諸願成就

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石田神社(いしだじんじゃ/いわたじんじゃ)は、京都府八幡市岩田茶屋ノ前にある神社。式内石田神社とも。第二京阪道路から八幡内里の交差点で県道282号線を東進。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 久世郡「石田神社」に比定される式内社(大社、月次・新嘗)の論社。近代社格では村社。
隣接して岩田大将軍の地であり、社頭の社標にも「岩田大将軍鎮座」とあるが、京都府神社庁の表記でも岩田茶屋ノ前としている。
岩田大将軍と岩田茶屋ノ前に二社の同名神社があるような記載もみられるが、それは同じことを言っており、当社のこと。ただ一社である。
奈良時代末期の延暦6年(787年)3月11日、山階の石田神を久世郡石田荘に遷座するようにとの神託があり、当地に勧請、創始された。
山階(山科)の石田神は不詳だが、石田の杜と呼ばれる地に遷座した天穂日命神社があり、やはり式内論社の一つ。
主祭神は五十日足彦命。第11代垂仁天皇の皇子で、『日本書紀』に「五十日足彦命、是子石田君の始祖なり」とある。ただその後、「石田君」に関する資料はなく、不詳。
相殿神について。まず饒速日命は、鎌倉時代初期の元治元年(1185年)、源頼朝に仕え軍功があった伊豆三島の住人である物部公宗が久世郡箕里荘を給わり、石田里に来住。
建久2年(1191年)、その遠祖である饒速日命を祀る社を建立し、降宮と称した。南北朝時代末期の明徳3年(1382年)、物部公経が当社境内に別殿を造立して遷座した。
惟喬親王は、第55代文徳天皇の第一皇子。東岩田の小字玉造に、親王の栖寓地があった。
親王没後の元慶3年(879年)、その子が遺命により父の調度品を埋めて塚を造った。ただし一般に、親王の没年は寛平9年(897年)とされる。
その塚が大将軍塚と呼ばれる小丘で、東に隣接した地の小字大將軍の地。往時は塚上に大竜王宮社と称する小祠があった。
大将軍塚はもともと惟喬親王の御霊社址と伝え、旱魃の時にはこの塚の周りを回って雨乞いを行った。
南北朝時代の暦応3年(1340年)、在地土豪の物部公實が当社境内に別殿を建てて、惟喬親王の御神霊は遷座した。ここで、御霊社とは分離したものか。
この2柱はいずれも、戦国時代の天文16年(1547年)、当社本殿再建に伴って相殿として祀られた。現在までに他に、天照大神・大山咋命を祀る。
江戸時代中期の『山城名跡巡行記』では、「御霊社 同村(岩田村)民居の北に在り。社南向。当社石田社歟(カ)。延喜式に云う久世郡石田神社 是郡相違」とある。
さらに、「又神祇拾遺(1663・江戸前期)に載る綴喜郡御霊歟、祀るは文太夫霊神文屋宮田丸と号す、御霊八座の一也。当村産沙神也」としている。
他の資料でも、近世の当社は御霊社、あるいは御霊神社と呼ばれていたようで、御祭神は文屋宮田麻呂とされていた。
文屋宮田麻呂、つまり文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。
承和10年(843年)、謀反の罪で伊豆国に流され、その地で没。死後、無実だったことが分かり、神泉苑御霊会で慰霊された。
現在も上御霊神社と下御霊神社で文大夫の神名で、御霊神八座として、祀られている。当社との関係は不詳。
ただし、上述のように、大将軍塚があり、それが御霊社と呼ばれていたことと関係していそうだ。明治6年(1873年)、当社は村社に列した。
明治8年(1875年)、塚上の小祠を境内に移し、水神社(速秋津彦命・速秋津姫命)と改称した。明治22年(1889年)、当社は御霊社から現社号へ改称した。
昭和9年(1934年)、その末社の水神社は室戸台風で倒壊したが、その後再建されたようだ。例祭は10月9日。安産のために巻く岩田帯は当社に由来すると伝わる。
なお、式内社「石田神社」の論社は先の天穂日命神社の他、岩田里に当社および式内同名神社がある。また、上津屋里垣内にも当社と同名の神社がある。
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