孝安朝に2柱の神が降臨、粟田朝臣あるいは粟直の祖神?
粟神社 京都府城陽市市辺大谷68
[住所]京都府城陽市市辺大谷68
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粟神社(あわじんじゃ)は、京都府城陽市市辺大谷にある神社。奈良線の三条青谷駅の東、国道307号線青谷バイパス近く。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 綴喜郡「粟神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

『城陽市史』で戦国時代の『綴喜郡櫟野邊粟神社記』を引用したものによれば、第6代孝安天皇の御代、平間山の麓・百舌ヶ原に神が降臨したという。

少名彦名尊高御産霊神の2柱で、1柱は椎の樹に、1柱は榊の木に留まり、百舌野に住んでいた乙足彦連という者に「社殿を建てて、われを祀れ」と夢告した。

そこで、林中に分け入って探すと、椎木のもとに粟の穂があり、榊のもとには稲穂が生えていたので、そこに社殿を建てて祀ったのが当社の始まりという。

もとは現在地から東へ500-600メートルあまり、小字松尾の鎮守屋敷という地に鎮座したが、中世になって現在地に遷座したという。

市辺の集落はかつて、当社付近にあったと言われ、青谷川の氾濫によって現在地ヘ移動したという。したがって現在、当社は集落からは完全に孤立している。

当社創建にかかわる古代氏族は不明だが、『神名帳考証』では、『新撰姓氏禄』にある「粟田朝臣」を想定している。

「粟田朝臣」は「山城国皇別 (第5代)孝昭天皇皇子天足彦国押人命三世孫彦国葺命之後也」である。

また、『神社覈録』では、当社の氏人として、『続日本紀』光仁天皇の宝亀7年(776年)6月8日条の「近衛・大初位下の粟人道足ら十人に、粟直の氏姓を賜る」を指摘する。

そのため、御祭神について、少名彦名尊の他、粟直祖神とも。また、天日方奇日方命の説もある。近世になり、粟明神・稲粟明神・稲粟大明神などと呼ばれた。

例祭は4月8日で例大祭。山麓を利用した社叢を有する。集落から離れていることもあって、訪れる人もないようでさぴれている。しかし、清掃は行き届いている。

【ご利益】
五穀豊穣、厄災除け、病気平癒
粟神社 京都府城陽市市辺大谷
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