もとは火止津目大明神、洪水で流出した古地、式内三論社
[住所]京都府京都市南区久世築山町367
[電話]-
菱妻神社(ひしづまじんじゃ)は、京都府京都市南区久世築山町にある神社。現在は綾戸國中神社の兼務社で、御朱印も綾戸國中神社で頂ける。
創祀年代は不詳。『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 乙訓郡「簀原神社」に比定される式内社(小社)の論社だという伝承が残る。
往時は簀原大明神(すはらだいみょうじん)と呼ばれ、平安時代末期の12世紀、簀原の地の火止津目大明神(ひしづめだいみょうじん)が桂川の大洪水で流失した。
その下流の久我の地に再建された。これが現在、伏見区久我石原町にある当社と同名の神社であり、当社の旧地、前身ということになる、という。
しかし、流失した旧地にも簀原大明神が改めて奉斎され、鎮座した、とも。鎌倉時代の13世紀頃、乙訓坐火雷神社(おとくににいますほのいかづちじんじゃ)と呼ばれた。
乙訓坐火雷神社は式内社名で、現在は長岡京市の角宮神社と向日市の向日神社に合祀の火雷神社が論社になっている。
式内の伝承が混線したか。ともかく、さらに戦国時代の16世紀ごろ、現社号に改称したという。現在の御祭神は、天津彦火瓊瓊杵尊。
境内末社に東三社として、磐裂社(石神社)・加茂社・春日社が、西三社として、蛭児社・松尾社・稲荷社がある。
境外に祠はないが、走田神社、簀原神社、茨田神社の各末社がある。
これらの末社は、『延喜式』神名帳「茨田神社」「簀原神社」「走田神社」に比定される式内社(小社)の論社、あるいは参考社・後継社。
式内社「茨田神社」の論社は他に綾戸國中神社、「簀原神社」の論社は他に先の久我石原町にある当社と同名神社、「走田神社」の論社は他に長岡京市の式内同名神社がある。
なお、当社は1月に行われる近隣21社からなる乙訓鎮座神社巡りの一社である。
【ご利益】
厄災除け、事業成功

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・乙訓鎮座神社巡り - 京都府の乙訓地方に鎮座する指定の神社21社を巡るイベント
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菱妻神社(ひしづまじんじゃ)は、京都府京都市南区久世築山町にある神社。現在は綾戸國中神社の兼務社で、御朱印も綾戸國中神社で頂ける。
創祀年代は不詳。『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 乙訓郡「簀原神社」に比定される式内社(小社)の論社だという伝承が残る。
往時は簀原大明神(すはらだいみょうじん)と呼ばれ、平安時代末期の12世紀、簀原の地の火止津目大明神(ひしづめだいみょうじん)が桂川の大洪水で流失した。
その下流の久我の地に再建された。これが現在、伏見区久我石原町にある当社と同名の神社であり、当社の旧地、前身ということになる、という。
しかし、流失した旧地にも簀原大明神が改めて奉斎され、鎮座した、とも。鎌倉時代の13世紀頃、乙訓坐火雷神社(おとくににいますほのいかづちじんじゃ)と呼ばれた。
乙訓坐火雷神社は式内社名で、現在は長岡京市の角宮神社と向日市の向日神社に合祀の火雷神社が論社になっている。
式内の伝承が混線したか。ともかく、さらに戦国時代の16世紀ごろ、現社号に改称したという。現在の御祭神は、天津彦火瓊瓊杵尊。
境内末社に東三社として、磐裂社(石神社)・加茂社・春日社が、西三社として、蛭児社・松尾社・稲荷社がある。
境外に祠はないが、走田神社、簀原神社、茨田神社の各末社がある。
これらの末社は、『延喜式』神名帳「茨田神社」「簀原神社」「走田神社」に比定される式内社(小社)の論社、あるいは参考社・後継社。
式内社「茨田神社」の論社は他に綾戸國中神社、「簀原神社」の論社は他に先の久我石原町にある当社と同名神社、「走田神社」の論社は他に長岡京市の式内同名神社がある。
なお、当社は1月に行われる近隣21社からなる乙訓鎮座神社巡りの一社である。
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