神武天皇の船をつけた地、江戸期に塩田の鎮守、10月例大祭
[住所]広島県福山市松永町5-33-13
[電話]084-934-4518

潮崎神社(しおざきじんじゃ)は、広島県福山市松永町にある神社。現在は高諸神社の兼務社である。御朱印の有無は不明。

創祀年代は不詳。もとはすぐ東の柳津(やないづ)に鎮座していた。初代神武天皇の東遷の際、その船を柳津の地に着けた。

船を柳樹のもとに着けたため、その地を柳津と名づけられたという。この由緒によって、神武天皇(神倭磐礼彦命)を祀ったのが当社の起源だという。

つまり、当社も『古事記』では8年、『日本書紀』では3年、神武天皇が駐蹕したという吉備の高島宮の候補地の一つである。

江戸時代前期の寛文3年(1663年)、福山藩士である本荘重政が松永塩田築造の際、当社を現在地に遷座し、塩浜の鎮守とした。

その際、当時剣神社と呼ばれていた高諸神社の御分霊を勧請、須佐之男之神を合祀したため、近世を通じて、当社も剣大明神とも呼ばれた。

それまで松永の産土神は隣村の神村(現 神村町)の八幡宮だったが、当社遷座後は、塩浜で塩業に携わる人の産土神となった。

江戸時代、例祭は旧暦8月28日に行われていたが、「煙火祭」と呼ばれ、それは豪快なものだったという。前日27日夜から神輿渡御が行われた。

松永の西端の機織の沖に鎮座していた稲荷社の御旅所へ海上渡御する間、塩浜ごとに大銃をぶっ放し、神輿に随う何艘もの御供船からは火箭を星のように打ち上げた。

また、28日の浜中神輿渡御においても、同様に大銃火箭がおびただしく放たれた。これらは本庄氏が伝えた一陽・荻野・山鹿流の兵法に基づいて行われたもの。

この大祭も、近代になると塩の良く取れた年のみ行われるようになり、機織の沖も埋め立てが進んで、御旅所ももとの塩浜地に移されると海上渡御の儀はなくなった。

現在までに、相殿に住吉三神を祀る。現在の本殿は、江戸時代中期の宝永7年(1710年)の建立である。

檜皮葺の千鳥破風付き入母屋造、平入りで、桁行3間、梁間2間に向拝1間が付属している。三間社としては珍しく、すべて角柱が使われている。

軒下の蟇股には十二支の彫刻が透かしで入っており、外観の総間数が10間のため、向拝と内陣を加えて12としている。

向拝の虹梁には、象の丸彫の木鼻を付け、手挟は雲と波の浮彫が施されている。なお、当社には、遷座後間もなく、江戸時代前期の寛文7年(1667年)の棟札も伝わる。

例祭は現在、10月10・11日。往時ほどの盛り上がりはなくなったが、山車(だんじり)の巡行があり、地元に密着した祭典になっている。

平成21年(2009年)には三百五十年祭が斎行され、山車コンテストの他、往時を彷彿とさせる千発の花火を打ち上げられた。

境内には、入口に元禄13年(1700年)寄進の鳥居があり、それに続く正徳6年(1716年)の銘が刻まれた石橋がある。

【ご利益】
海上・交通安全、厄災除け、武運長久・勝運
潮崎神社 広島県福山市松永町
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