平安末期に平氏追討祈願、江戸期には式内認定の舞台に
宇佐八幡宮 岡山県瀬戸内市長船町服部129
[住所]岡山県瀬戸内市長船町服部129
[電話]0869-26-2428

宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)は、岡山県瀬戸内市長船町服部にある神社。近代社格では村社。赤穂線の長船駅の北、線路沿い。御朱印の有無は不明。

創建年代は不詳。豊前国宇佐神宮から勧請したと伝えられている。平安時代末期の元暦元年(1184年)、佐々木盛綱が平氏追討の際、当宮へ立願した。

また、服部丸山城主天野佐介(天野左亮?)が西戎を鎮撫の際、当宮へ立願し、凱旋時には神輿1基を奉納した。

戦国時代の文明15年(1484年)、松田左近将監元就(松田左近将監元堅/元輝?)が、福岡城を囲んだ際、当宮に陣を置いた。弘治元年(1555年)、火災に遭った。

江戸時代になり、承応2年(1653年)、本殿再建。寛文6年(1667年)、藩主池田光政から代々社領高4石9斗6升の寄進を受けた。

当宮は式内社「美和神社」の再興の舞台の一つ。江戸時代中期の延享3年(1746年)、岡山藩に対し、式内社として、福里の美和神社の再興願いが出された。

当時この美和神社は、多賀神社に合祀されていた。翌延享4年(1747年)、式内社認定という重大事から、藩主池田継政が江戸幕府に再興伺いを提出した。

その3月25日、富岡名主権平は岡山からの帰途、亥の刻頃、当宮の正面2町ばかり前の道で遙拝していた。

その時、西方から火の玉が飛来して、当宮社殿の上に止まり、しばらくしてそのまま消え失せた。

翌26日、岡山から飛脚が到来し、江戸からの飛脚により、当社再興が許されたこと、前夜の火の玉はまさに美和神社の御神霊であることが伝えられた。

そこで当宮の社殿で、美和神社の御神体を御装束し、福里へ奉遷、寛延2年(1749年)、美和神社は正式に再興された。

しかし明治になり、福里の美和神社は式内社として認められず、式内社は東須恵の美和神社に比定されることになった。

ともかく、式内再興という重要時の舞台として登場するところに、当宮の往時の影響力の大きさを垣間見ることができる。

さらに宝暦11年(1761年)、江戸時代後期の弘化4年(1847年)、それぞれ本殿が再建された。

当社の御祭神は、比賣大神・品陀和気命息長帯姫命。例祭は10月第4日曜日とその前日で秋季大祭。

【ご利益】
厄災除け、安産、地域安全、家内安全
宇佐八幡宮 岡山県瀬戸内市長船町服部
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