広高八幡宮、奈良を勧請とも、広高神社から遷座とも
美和神社 岡山県瀬戸内市長船町東須恵1064
[住所]岡山県瀬戸内市長船町東須恵1064
[電話]0869-65-8368

美和神社(みわじんじゃ)は、岡山県瀬戸内市長船町東須恵にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 備前国 邑久郡「美和神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

標高166メートルの広高山の山上に鎮座する。広高山は古来、三和ノ峰と呼ばれ、奈良県の三輪山と同様、御神体山として崇められてきた。

広高山の北麓には築山古墳・札崎古墳群、南麓にはサザラシ古墳群などの古墳が見られ、周辺は古来より人が住んでいた地域であった。

神功皇后が牛窓の蕪崎に船で逗留中、白鷹が誤って海に落ちた。白鷹は泳いで北岸に渡り、そのまま山に駆け上がり息絶えた。

住民は白鷹を、この山に手厚く葬った。そこで「白鷹山」と呼ばれるようになり、後世、訛って「広高山」となったという。

山頂には磐座があり、奥津磐座と称される。社殿が構えられると、御神体は本殿に遷座した。磐座の周囲には縦・横各辺11メートルの正方形に小石が敷き詰められている。

創祀年代は不詳。社伝によれば、奈良大神神社から勧請されたと伝えられている。一方、口伝では同市邑久町尻海の広高神社より遷座したと伝えられている。

御祭神は、大物主命。神階は、『備前國式社考』によれば従三位、応永(1394年-1427年)・明応(1492年-1501年)の神階記によれば正三位となっている。

戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)、日蓮宗を信奉する金川城主の松田左近将監元堅・元賢父子は各寺社に改宗を迫り、拒絶すると弾圧した。

八幡神のみは法華勧請の神であるとしたため、当社は広高八幡宮と改称し破却を免れたと伝えられる。

当社境内からは表面に「天正十三年閏七月拾三日 八幡舞殿建立つかまつり候 すへ畑寺空賢 敬白」と文字が篦で彫られた瓦が出土している。

この文字中にある「すへ畑寺」とは、畑山大聖寺のことで、往時の当社の別当だった。

天正13年は安土桃山時代の1585年。八幡改称後間もなくのものだと考えられる。この文字瓦は、市の重要文化財に指定されている。

以後、江戸時代を通じて広高八幡宮と呼ばれた。江戸時代前期の慶安元年(1648年)の記録では、神職2人、神子・禰宜24人が奉仕したとある。

また、神輿3体、流鏑馬に参加する馬が3疋、御神幸に参加する馬が9疋とあり、当時の祭典がいかに盛大だったものだかがわかる。

寛文年間(1661年-1673年)、池田光政が17石2斗を寄進した。

明治3年(1870年)、現社号に復した。明治6年(1873年)、郷社に列した。明治40年(1907年)1月27日、神饌幣帛料供進社に指定された。

明治43年(1910年)1月11日、村社青木神社(天照大神荒魂)を合祀した。現在までに、仲哀天皇応神天皇・神功皇后・天日方奇日方命も配祀する。

例祭は10月9日で秋季大祭。前日の8日も含め、東須恵と西須恵の祷主と神職および従者数名が、邑久町尻海の海岸で潮ごりをとる。

その後、身を清めて、当社の本宮との口伝のある広高神社(現在は若宮八幡宮の境内社)へ酒・米などを供えて祀る。

神霊を祷屋へむかえる行事が「オシバサガリ」、神霊を祷屋から神社へおくる行事が「オシバアゲ」と呼ばれている。

3月9日には祈年祭があり、作物の豊凶を占う行事「神卜」が行われる。また、境内社に、武甕槌神社・日吉神社・稲荷神社がある。

樹齢約300年のヤマモモの古木が御神木となっている。根元周囲は約7メートル、樹高は約10メートル。もと旧長船町指定、現在は市の天然記念物になっている。

当社の東にある榊谷という深い谷に「美和の井」という井戸がある。古書に「いとよき清水なり神供の類みなこの井の水を調進す」と記載される。現在は使用していない。

なお、式内社「美和神社」は当社でほぼ確定しているが、参考社として、磯上の多賀神社の境内社と、福里の当社および式内同名神社がある。

【ご利益】
五穀豊穣、海上安全、大漁満足、厄災除け
美和神社 岡山県瀬戸内市長船町東須恵
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