垂仁朝に神威あって山麓に遷座、古くは仁堀庄10ヶ村の大社
[住所]岡山県赤磐市仁堀西1027
[電話]0867-28-2393
布勢神社(ふせじんじゃ)は、岡山県赤磐市仁堀西にある神社。県道255号線と合流する国道484号線を北進。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 備前国 赤坂郡「布勢神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。古伝によれば、第11代垂仁天皇の御字、南海の渡船が転覆するという難があり、天皇は博士に命じて占わせた。
その結果、「こは吉備の国布勢大明神の神威なり、社殿を七谷七畝の山麓に遷し、北面に勧請ありたし」と奏上された。
そこで、現在地の山麓に勧請し、社殿を造営したと伝えられている。つまり、もとは鳥ヶ仙とも呼ばれた龍天山(竜天山)の頂上に鎮座していた。
この当社の旧地、標高483メートルの竜天山山頂には現在、布勢巨神社が鎮座する。式内社「布勢神社」の参考社である。
仁堀庄10ヶ村の大社として崇敬された。江戸時代前期の寛文9年(1669年)、備前岡山藩初代藩主池田光政が本殿を造営して再建された。この際の棟札が現存する。
御祭神は、大穴牟遅尊とされているが、他に第8代孝元天皇の第一子で、阿部氏・膳部氏の祖である大彦命とする説がある。
また、大己喜命・大彦命・天鈿女命の3柱とする説もある。例祭は10月第4日曜日。明治6年(1873年)、郷社に列した。
大正4年(1915年)、同地域内にあった天津神杜(天御中主尊)、熊野神社(紀州熊野神)、八幡宮(仲哀天皇・応神天皇・神功皇后)を相殿に合祀した。
境内社に荒神社、素盞嗚神社がある。なお、当社は現在、近くの金勢大明神の兼務社である。
【ご利益】
厄災除け、交通安全、武運長久・勝運

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・岡山県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、岡山県に鎮座している神社の一覧
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布勢神社(ふせじんじゃ)は、岡山県赤磐市仁堀西にある神社。県道255号線と合流する国道484号線を北進。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 備前国 赤坂郡「布勢神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。古伝によれば、第11代垂仁天皇の御字、南海の渡船が転覆するという難があり、天皇は博士に命じて占わせた。
その結果、「こは吉備の国布勢大明神の神威なり、社殿を七谷七畝の山麓に遷し、北面に勧請ありたし」と奏上された。
そこで、現在地の山麓に勧請し、社殿を造営したと伝えられている。つまり、もとは鳥ヶ仙とも呼ばれた龍天山(竜天山)の頂上に鎮座していた。
この当社の旧地、標高483メートルの竜天山山頂には現在、布勢巨神社が鎮座する。式内社「布勢神社」の参考社である。
仁堀庄10ヶ村の大社として崇敬された。江戸時代前期の寛文9年(1669年)、備前岡山藩初代藩主池田光政が本殿を造営して再建された。この際の棟札が現存する。
御祭神は、大穴牟遅尊とされているが、他に第8代孝元天皇の第一子で、阿部氏・膳部氏の祖である大彦命とする説がある。
また、大己喜命・大彦命・天鈿女命の3柱とする説もある。例祭は10月第4日曜日。明治6年(1873年)、郷社に列した。
大正4年(1915年)、同地域内にあった天津神杜(天御中主尊)、熊野神社(紀州熊野神)、八幡宮(仲哀天皇・応神天皇・神功皇后)を相殿に合祀した。
境内社に荒神社、素盞嗚神社がある。なお、当社は現在、近くの金勢大明神の兼務社である。
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