孝霊帝の御代の勧請、大山祇神社末社の七郎大明神、巨樹ホルトノキ
[住所]広島県呉市豊町大長5006-3
[電話]0823-66-2596

宇津神社(うつじんじゃ)は、広島県呉市豊町大長にある神社。瀬戸内海の中部の芸予諸島、その中ほどにある大崎下島。すぐ東に見える岡村島は愛媛県。参拝すれば、御朱印を頂ける。

江戸時代の埋め立て前まで、入江の奥に鎮座し、もとは当社の鳥居が海に面していたと考えられている。

社伝によれば、初代神武天皇の東征の際に宇津大神、八十禍津日神の先導で、この地に留まったとされている。『古事記』にある橋根津日子と関連するか。

第7代孝霊天皇の第三子の彦狭島王が勅命を奉じ、伊予に下向した際に、都の鎮守と瀬戸内海の安寧祈願のために大長に奉祀したとされている。

奈良時代の宝亀4年(773年)、神託により越智七島に大山積の御子など十六王子を分祠したと伝わる。

越智七島は、中世には生奈島、岩城島、大三島、大下島、岡村島、御手洗島、豊島で構成され、大山祇神社の社領を形成していた。

平安時代、第74代鳥羽天皇(在位:1107年-1123年)の御代、菅原某が筑紫から京へ向かう途中嵐に遭い、当地に泊り、霊夢を見た。

その加護で京まで無難に帰ることができたので、その旨を国守に伝え、社を再興した、という。

鎌倉時代末期の正安4年(1302年)、菅原氏が大山祇神社に長屋、いわゆる十七王子神社を建立、大祝安俊により遷宮が行われ、隆号を七郎大明神とした。

当社に現存する最古の棟札は文保2年(1308年)のもの。その際は「七郎王子宮御社」とある。

御祭神は八十禍津日神。社伝によれば、この遷宮と造営の際、災害から人々を護る神直日神大直日神が合祀された。

次に古い棟札は室町時代の永享12年(1440年)のもの。「七郎王子大明神」とあり、小早川円春が大願主となって社殿を造立した。

また、文明8年(1478年)の棟札には、「三嶋七島内大条浦七郎大明神」とある。この際、現在地に遷座したという。

当社の旧地は大長の南谷の最も奥の皆見で、そこには現在、八王子社が祀られている。

戦国時代、多くの戦国武将が戦勝祈願に訪れ、武具を献じたと伝わる。それらの一部は現在、隣接する宝物館に展示されている。

他に、永禄10年(1567年)、江戸時代初期の慶長16年(1611年)、江戸時代前期の寛文13年(1673年)の棟札がある。

元禄13年(1700年)、石鳥居が建立され、江戸時代中期の寛保2年(1742年)に制札場の前に移動して再建された。

延享3年(1750年)、本殿が造営され、大坂から細工師を呼び寄せ、工料として銀7貫800匁(金130両)を支払った記録がある。旧社殿は東風崎龍王神社に移築され、現存する。

元禄13年のもとの石鳥居の柱脚2本は鳥居元と呼ばれ、拝殿のすぐ東の旧来の位置に残っている。しかし移設した石鳥居も宝暦7年(1757年)、台風で破損。

そのため、翌宝暦8(1758年)年に再建された。寛政元年(1789年)、大水によって破損、その後江戸時代後期の享和元年(1801年)、再興された。

現在の社殿は、幕末の元治2年(1865年)に造営されたもの。拝殿や幣殿、廊下などで形成する社壇の奥に、延切石を二段に積んだ二重の壇上に建てられている。

本殿は桁行3間、梁間2間で、屋根は入母屋造り、銅板葺き、正面に1間の向拝が設けられ、軒唐破風が付いている。

屋根は本来桧皮葺で瓦棟が載っていたが、前後銅板葺きに改められ、平成25年(2013年)に葺き直しが行われた。

1月最終土曜日には初祭り・百手神事(弓祭り)が行われ、一般参加も可能で、多くの人で賑わう。

境内には、社殿左方と後方に2本のホルトノキがある。樹齢は不明だが、胸高周囲がいずれも4メートルを超え、ホルトノキとしては県内有数の巨木。県指定天然記念物。

当社周辺はアニメ『ももへの手紙』の舞台。門前にある家がアニメに登場した。

【ご利益】
厄災除け、海上・交通安全、地域安全
宇津神社 広島県呉市豊町大長
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