大山積命を奉斎し、百射之山島と呼ばれた福山に鎮座した式内社
[住所]岡山県総社市三輪1347
[電話]0866-93-9925
百射山神社(ももいやまじんじゃ)は、岡山県総社市三輪にある神社。桃太郎線の東総社駅の南。総社運動公園の近く。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 備中国 窪屋郡「百射山神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。五田守国勝長狭命(ながさのみこと)と宇津命(うつのみこと)が、水軍を率いて吉備の島々の賊を平らげた。
その際、滞在地の百射之山島(福山)に祖神として大山積命を奉斎したのが当社の始まりと伝えられている。
五田守国勝長狭命と宇津命は不詳。五田守国勝長狭命について、『古事記』には塩椎神の別名として、事勝国勝長狭神がある。
大山積命の娘夫婦である、瓊瓊杵尊と木花開邪姫命の子、山幸彦を導く神として、塩椎神は出てくる。塩土老翁とも書かれ、後述古伝の老人を彷彿とさせる。
宇津命について、禍津日神、つまり八十禍津日神のこととも考えられる。広島県呉市豊町大長の宇津神社で祀られ、宇津神社は大山祇神社の第7番目の末社とされる。
また、『古事記』には初代神武天皇の東遷において、橋根津日子(さおつねひこ)が登場する。岡山県の瀬戸内海近くにゆかりのある神。
また古伝によると、第40代天武天皇が国中を行幸した時、道に一人の老人がおり、射的をして遊んでいた。
そこへ敵が迫り、老人は逃げるものは追わず、近づくもののみを射た。後、屍を埋葬し、墓誌を建て、塔を建てたという。その老人を祀ったのが当社の初めとも。
もとは倉敷、清音、山手にかかる標高302メートルの福山に鎮座したが、南北朝時代初期の建武3年(1336年)、福山合戦(1336年)で社殿が焼失した。
後に、隣山の幸山(こうやま)に遷座しが、さらに江戸時代前期、備前岡山藩初代藩主池田光政の命により、寛文12年(1672年)、現在の宮山の麓へ移された。
現在地の三輪山は南北約1.2キロ、東西約1.1キロ、最高所は標高96.3メートルの半独立した花崗岩からなる丘陵。
三輪山の古墳群や、宮山型特殊器台と飛禽鏡(ひきん)が出土した宮山古墳が知られるが、当社遷座のはるか前のこととなる。
ただし、当地はやはり下道郡の式内社の神神社の旧地の可能性がある。神神社とこれらの古墳、出土品は関係するか。
また、後述する当社が合祀した三輪神社はもともとこの地にあったものと考えられる。その場合、この三輪神社が式内社「神神社」の論社になる可能性がある。
ちなみに、当社の最初の鎮座地である福山は当社の南東2キロほど、次の鎮座地である幸山は、福山城の北西1キロほどのところにある。
近世には、百射山大明神とも百射山天神宮とも称していた。幕末の慶応2年(1866年)、蒔田広孝が「御紋付御幕一帳」を寄進した。
明治になり、現社号に改称して村社に列し、大正15年(1926年)6月29日、神饌幣帛料供進社に指定された。
拝殿扁額には「御崎神社 百射山神社 三輪神社」と三つの社号が記されている。御崎神社(吉備武彦命)・三輪神社(猿田彦命・大物主命)を合祀している。
例祭は10月第2日曜日。4月第2日曜日には祈年祭が、12月第2日曜日には新嘗祭がある。
【ご利益】
交通安全、家内安全、健康長寿
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百射山神社(ももいやまじんじゃ)は、岡山県総社市三輪にある神社。桃太郎線の東総社駅の南。総社運動公園の近く。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 備中国 窪屋郡「百射山神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。五田守国勝長狭命(ながさのみこと)と宇津命(うつのみこと)が、水軍を率いて吉備の島々の賊を平らげた。
その際、滞在地の百射之山島(福山)に祖神として大山積命を奉斎したのが当社の始まりと伝えられている。
五田守国勝長狭命と宇津命は不詳。五田守国勝長狭命について、『古事記』には塩椎神の別名として、事勝国勝長狭神がある。
大山積命の娘夫婦である、瓊瓊杵尊と木花開邪姫命の子、山幸彦を導く神として、塩椎神は出てくる。塩土老翁とも書かれ、後述古伝の老人を彷彿とさせる。
宇津命について、禍津日神、つまり八十禍津日神のこととも考えられる。広島県呉市豊町大長の宇津神社で祀られ、宇津神社は大山祇神社の第7番目の末社とされる。
また、『古事記』には初代神武天皇の東遷において、橋根津日子(さおつねひこ)が登場する。岡山県の瀬戸内海近くにゆかりのある神。
また古伝によると、第40代天武天皇が国中を行幸した時、道に一人の老人がおり、射的をして遊んでいた。
そこへ敵が迫り、老人は逃げるものは追わず、近づくもののみを射た。後、屍を埋葬し、墓誌を建て、塔を建てたという。その老人を祀ったのが当社の初めとも。
もとは倉敷、清音、山手にかかる標高302メートルの福山に鎮座したが、南北朝時代初期の建武3年(1336年)、福山合戦(1336年)で社殿が焼失した。
後に、隣山の幸山(こうやま)に遷座しが、さらに江戸時代前期、備前岡山藩初代藩主池田光政の命により、寛文12年(1672年)、現在の宮山の麓へ移された。
現在地の三輪山は南北約1.2キロ、東西約1.1キロ、最高所は標高96.3メートルの半独立した花崗岩からなる丘陵。
三輪山の古墳群や、宮山型特殊器台と飛禽鏡(ひきん)が出土した宮山古墳が知られるが、当社遷座のはるか前のこととなる。
ただし、当地はやはり下道郡の式内社の神神社の旧地の可能性がある。神神社とこれらの古墳、出土品は関係するか。
また、後述する当社が合祀した三輪神社はもともとこの地にあったものと考えられる。その場合、この三輪神社が式内社「神神社」の論社になる可能性がある。
ちなみに、当社の最初の鎮座地である福山は当社の南東2キロほど、次の鎮座地である幸山は、福山城の北西1キロほどのところにある。
近世には、百射山大明神とも百射山天神宮とも称していた。幕末の慶応2年(1866年)、蒔田広孝が「御紋付御幕一帳」を寄進した。
明治になり、現社号に改称して村社に列し、大正15年(1926年)6月29日、神饌幣帛料供進社に指定された。
拝殿扁額には「御崎神社 百射山神社 三輪神社」と三つの社号が記されている。御崎神社(吉備武彦命)・三輪神社(猿田彦命・大物主命)を合祀している。
例祭は10月第2日曜日。4月第2日曜日には祈年祭が、12月第2日曜日には新嘗祭がある。
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