熊野権現・佐護権現と呼ばれ、佐護唯一の観音堂があった社
[住所]長崎県対馬市上県町佐護北里793
[電話]-
天諸羽神社(あまのもろはじんじゃ)は、長崎県対馬市上県町佐護北里、いわゆる佐護恵古にある神社。国道382号線から佐護川に沿って北西へ数百メートル。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 対馬国 上県郡「天諸羽命神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。『對州神社誌』では、権現と記され、別の資料では、佐護権現社(神産霊尊)とも。また、熊野権現とも呼ばれていた。
『神社明細帳』において、当社は特段式内を主張していないが、『大小神社帳』『津島紀事』『島誌』などが式内社に比定している。
天諸羽神は、対馬ト部の原初の祖神との指摘がある。このト部が、天児屋根命の裔と称するようになったのは、神祇官でのト部の職掌が、中臣氏の配下に組み込まれたためという。
式内社「天諸羽命神社」は貞観12年(870年)、従五位上に叙された。論社は他に、峰町吉田・上対馬町一重と、佐護の東里に当社と同名神社があり、佐護の東里には春日神社もある。
佐護には、恵古、深山、仁田ノ内、井口、友谷、湊という6ヶ村があり、その中心地として栄えたのが恵古だった。
佐護では唯一恵古にのみ観音堂がある。この観音堂は対馬六観音の一つで、最北の六観音。この観音道がもとは当社境内にあったという。
それが明治初年(1868年)の神仏分離で引き離され、現在の白嶽南麓に落ち着いたという。本尊の聖観音立像は室町時代の作とされる。
明治7年(1874年)、村社に列し、現社号に改称した。御祭神は、宇摩志摩治命・天児屋根命・雷大臣(中臣烏賊使主)。『特撰神名牒』には天諸羽命とある。
なぜ中臣氏の社で、物部の祖である宇摩志摩治命が祀られているのかは不詳。ともかく、当社の例祭は旧暦1月3日。
【ご利益】
厄災除け、地域安全、家内安全
【関連記事】
・長崎県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、長崎県に鎮座している神社の一覧
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天諸羽神社(あまのもろはじんじゃ)は、長崎県対馬市上県町佐護北里、いわゆる佐護恵古にある神社。国道382号線から佐護川に沿って北西へ数百メートル。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 対馬国 上県郡「天諸羽命神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。『對州神社誌』では、権現と記され、別の資料では、佐護権現社(神産霊尊)とも。また、熊野権現とも呼ばれていた。
『神社明細帳』において、当社は特段式内を主張していないが、『大小神社帳』『津島紀事』『島誌』などが式内社に比定している。
天諸羽神は、対馬ト部の原初の祖神との指摘がある。このト部が、天児屋根命の裔と称するようになったのは、神祇官でのト部の職掌が、中臣氏の配下に組み込まれたためという。
式内社「天諸羽命神社」は貞観12年(870年)、従五位上に叙された。論社は他に、峰町吉田・上対馬町一重と、佐護の東里に当社と同名神社があり、佐護の東里には春日神社もある。
佐護には、恵古、深山、仁田ノ内、井口、友谷、湊という6ヶ村があり、その中心地として栄えたのが恵古だった。
佐護では唯一恵古にのみ観音堂がある。この観音堂は対馬六観音の一つで、最北の六観音。この観音道がもとは当社境内にあったという。
それが明治初年(1868年)の神仏分離で引き離され、現在の白嶽南麓に落ち着いたという。本尊の聖観音立像は室町時代の作とされる。
明治7年(1874年)、村社に列し、現社号に改称した。御祭神は、宇摩志摩治命・天児屋根命・雷大臣(中臣烏賊使主)。『特撰神名牒』には天諸羽命とある。
なぜ中臣氏の社で、物部の祖である宇摩志摩治命が祀られているのかは不詳。ともかく、当社の例祭は旧暦1月3日。
【ご利益】
厄災除け、地域安全、家内安全
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