大調神と呼ばれた対馬銀山の神、安徳天皇伝承、矢立山の狭穂姫伝承
銀山上神社 長崎県対馬市厳原町久根田舎507
[住所]長崎県対馬市厳原町久根田舎507
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銀山上神社(ぎんざんじょうじんじゃ/しろかねのじんじゃ)は、長崎県対馬市厳原町久根田舎にある神社。下対馬の東側、標高648メートルの矢立山の西麓。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 対馬国 下県郡「銀山上神社」「銀山神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

創祀年代は不詳。『日本書紀』によれば、第40代天武天皇2年(674年)に対馬島司忍海造大国が対馬国で産出した銀(しろがね)を朝廷に献上した。

さらに朝廷は対馬島司に命じて金鉱を開発させ、第42代文武天皇5年(701年)に対馬から金が献上された。この結果、朝廷は元号「大宝」を定めた。

これらの動きと当社との関係を指摘する説があり、当社の創祀も大宝年間(701年-704年)ではないかとの見方がある。ただし、実際には金は出なかったようだ。

『続日本後紀』にある大調神に比定され、平安時代前期の承和4年(837年)2月、従五位下を授けられた。

鎮座地である久根の古名を「大調」といい、大調(おおつき)とは、大いなる調(みつぎ)のこと。

つまり、対馬銀山のことで、日本最古の銀山。『延喜式』で対馬の調は銀と定められ、大宰府に毎年調銀890両を納めるよう命じられた。

『對州神社誌』によれば、当社は御所大明神とあり、昔は五所大明神とも呼ばれていた。

御祭神は、『特撰神名牒』では金山彦命とするが、諸黒神と安徳天皇。安徳天皇(1178年-1185年)に関しては下記の伝承がある。

平安時代末期、第81代安徳天皇は壇ノ浦で源氏の包囲を脱出し、英彦山に潜伏して成人した。その後、島津氏の女との間に、重尚、助国の二子をもうけた。

二人は対馬に渡って宋氏となり、対馬の領主となった。安徳天皇は対馬に迎えられ、久根田舎に皇居を定め、74歳で崩御した。

当社からほど近くには、安徳天皇御陵墓参考地がある。宮内庁が管理するもので、宮内庁も一部この伝承を認めている形に。

ただし一般に安徳天皇陵は、山口県下関市阿弥陀寺町にある阿彌陀寺陵(あみだじのみささぎ、阿弥陀寺陵)に治定されている。安徳天皇を祀る赤間神宮境内に所在する。

ところで、もとは諸黒神を祀る。これは、当社同様、式内二社の論社である樫根の銀山神社と同じ神。鉱山(かなやま)の神として、異国から来た神だという。

室黒神とも呼ばれ、鉱山の開発に当たって、朝鮮半島から渡来した技術者がもたらした神だとされる。

境内社に都々地神社(つつちじんじゃ)がある。式内社「都々智神社」の論社の一つ。当地は矢立山の西麓で、この社は矢立山の遥拝所だと思われる。矢立山山頂には祭祀場跡が残る。

都々地神社の創祀は初代神武天皇の時代だといい、建彌己己命を祀る。建彌己己命は高魂命五世の子孫。神武天皇の時、津島(対馬)県主となった。

矢立山は昔は、都々智山と呼んでいたが、後、第11代垂仁天皇の后狭穂姫を加祭して矢立山と称するようになった。

それによれば、第9代開化天皇の孫である狭穂彦が謀反を起こして稲城に殺され、その際、実妹の狭穂姫は逃れて対馬の佐須川に忍び住んでいた。

しかしある時、狩人が誤って狭穂姫の胸を射抜いてしまい死んでしまった。その後、祟りがあったので、これを祀り矢立山と呼ぶようになった。

『古事記』でもハイライトの一つである狭穂彦・狭穂姫の悲話だが、ここでは、その続編が脈々と語り継がれている。

当社地は、山に囲まれた静かな農村で、石屋根など伝統的建築物が残る。当社の社殿は立派で、苔むした参道が美しい。

なお、平成28年(2016年)4月1日、国土交通省国土地理院のホームページ「日本の主な山岳の標高」において、矢立山の標高値が変更された。

もともとは648.52メートルだったが、648.40メートルに改定され、少数第1位が四捨五入されるため、従来649メートルだったが、改定後は648メートルになった。

式内社「都々智神社」の論社は他に、美津島町の郷崎尾崎に式内同名神社がある。

【ご利益】
産業振興、事業成功、諸願成就
銀山上神社 長崎県対馬市厳原町久根田舎
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