「かいじやま」山中に鎮座、神功皇后の時代に奉斎とも
[住所]長崎県壱岐市石田町筒城西触323
[電話]-
海神社(かいじんじゃ)は、長崎県壱岐市石田町筒城西触にある神社。人里離れた山中に、ひっそりと鎮座する。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 壱岐国 石田郡「海神社」に比定される式内社(大社)の論社。近代社格では無格社。
創立年代は不詳。伝えによれば、神功皇后が西戒征伐の際、功をなしたので、現在地に奉斎されたという。
式内社「海神社」は六国史にも記載され、それ以降も鎌倉時代に至るまで、順調に神階を進めている。
『壱岐国続風土記』に、「当社は嵯峨天皇弘仁二年辛卯冬十月朔平旦、直に日輪の神勅を受けて神代の霊璽を写し奉り真の神体に象り渡し奉る云々」とある。
創立を物語るものであれば、平安時代前期の弘仁2年(811年)となる。
『壱岐名勝図誌』には「海神社在海神川上一名戀川とも、石祠末向延宝年中源鎮信朝臣奉絹也」とあり、平戸藩初代藩主の松浦鎮信の崇敬を受けた。
当社に死を流れる川を「まうづ」と言い、「天水雨水」などの字があてられたが、もとは海水の意味で、当社が式内社「海神社」、とも考えられた。
江戸時代前期の延宝4年(1676年)、橘三喜の式内社査定によって、当社は式内比定され、山中なのに、現社号が定着した。
しかしこれは、当社近辺の「かみじやま」という山名を「海神山」と合点した結果だという。
『壱岐国神社考』では、「此地大社の建し所とも見えねば今の宗社八幡宮是則式の海神社なるべし云々」とある。
つまり、現在地には大社は建ちようがないため、当社の東、海辺にある白沙八幡宮が式内社「海神社」としては有力論社になっている。
当社の御祭神は豊玉彦命。例祭は11月4日で神幸・大神楽 。
【ご利益】
リフレッシュ、身体壮健、健康長寿、交通安全

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・長崎県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、長崎県に鎮座している神社の一覧
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海神社(かいじんじゃ)は、長崎県壱岐市石田町筒城西触にある神社。人里離れた山中に、ひっそりと鎮座する。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 壱岐国 石田郡「海神社」に比定される式内社(大社)の論社。近代社格では無格社。
創立年代は不詳。伝えによれば、神功皇后が西戒征伐の際、功をなしたので、現在地に奉斎されたという。
式内社「海神社」は六国史にも記載され、それ以降も鎌倉時代に至るまで、順調に神階を進めている。
『壱岐国続風土記』に、「当社は嵯峨天皇弘仁二年辛卯冬十月朔平旦、直に日輪の神勅を受けて神代の霊璽を写し奉り真の神体に象り渡し奉る云々」とある。
創立を物語るものであれば、平安時代前期の弘仁2年(811年)となる。
『壱岐名勝図誌』には「海神社在海神川上一名戀川とも、石祠末向延宝年中源鎮信朝臣奉絹也」とあり、平戸藩初代藩主の松浦鎮信の崇敬を受けた。
当社に死を流れる川を「まうづ」と言い、「天水雨水」などの字があてられたが、もとは海水の意味で、当社が式内社「海神社」、とも考えられた。
江戸時代前期の延宝4年(1676年)、橘三喜の式内社査定によって、当社は式内比定され、山中なのに、現社号が定着した。
しかしこれは、当社近辺の「かみじやま」という山名を「海神山」と合点した結果だという。
『壱岐国神社考』では、「此地大社の建し所とも見えねば今の宗社八幡宮是則式の海神社なるべし云々」とある。
つまり、現在地には大社は建ちようがないため、当社の東、海辺にある白沙八幡宮が式内社「海神社」としては有力論社になっている。
当社の御祭神は豊玉彦命。例祭は11月4日で神幸・大神楽 。
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