田原天神とも、壱岐全体の国魂を奉斎か、未発掘の前方後円墳2基
[住所]長崎県壱岐市郷ノ浦町大原触1125
[電話]-
大国玉神社(おおくにたまじんじゃ)は、長崎県壱岐市郷ノ浦町大原触にある神社。国道382号線を志原小学校の辺りで北上する。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 壱岐国 石田郡「大國玉神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
平安時代前期の弘仁2年(811年)創立と伝えられる。江戸時代前期の延宝4年(1676年)6月、式社改めで式内社に査定され、国主松浦鎮信より木鏡一面及石額が献ぜられた。
それ以前は大國魂命を祀っていた。国府にも近いので、壱岐全体の国魂を祀っていた、大国魂神社(大國魂神社)の系統だったと考えられる。
現在の御祭神は大己貴命。その別名である大国主命の「主」の字は、点の位置を変えると「玉」となり、大国玉命となる。
江戸時代初期の慶長12年(1607年)12月の記録には田原天神(たいばるてんじん)とある。菅原道真公も祀っている。他に大后神・事代主神・吉祥女・中将殿・宰相殿を祀る。
大己貴命・大后神・事代主神と菅贈相国(菅原道真)・吉祥女・中将殿・宰相殿という2つにグループに分けられるか。
大后神は、大己貴命の妃で、事代主神の母と考えると、神屋楯姫となるか。
古くは大原触の一部が氏子だったが彌佐支刀神社の氏子の中、西触の一部、平人触の一部が加わり隆盛を極めたという。
江戸時代前期の元禄2年(1689年)4月に社殿が造営され、江戸時代後期の文化2年(1805年)9月、神輿を新調した。
江戸時代には、国分にある國片主神社で開催されていた市と並ぶほど、当社の市も盛大に行われていたという。
大正9年(1920年)、神饌幣帛料供進社に指定された。例祭は10月25日で例大祭。
境内社に愛宕神社(石祠)があり、その工事中に祝部土器が出土したという。大正13年(1924年)には、弥生土器が出土。境内には2期の未発掘の前方後円墳があるという。
他に境内には、生き生きとした狛犬、力石、珍しい形の手水鉢、ホルトノキをはじめとした巨木が多くある。
【ご利益】
平穏安寧、厄災除け、学業・受験合格
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大国玉神社(おおくにたまじんじゃ)は、長崎県壱岐市郷ノ浦町大原触にある神社。国道382号線を志原小学校の辺りで北上する。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 壱岐国 石田郡「大國玉神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
平安時代前期の弘仁2年(811年)創立と伝えられる。江戸時代前期の延宝4年(1676年)6月、式社改めで式内社に査定され、国主松浦鎮信より木鏡一面及石額が献ぜられた。
それ以前は大國魂命を祀っていた。国府にも近いので、壱岐全体の国魂を祀っていた、大国魂神社(大國魂神社)の系統だったと考えられる。
現在の御祭神は大己貴命。その別名である大国主命の「主」の字は、点の位置を変えると「玉」となり、大国玉命となる。
江戸時代初期の慶長12年(1607年)12月の記録には田原天神(たいばるてんじん)とある。菅原道真公も祀っている。他に大后神・事代主神・吉祥女・中将殿・宰相殿を祀る。
大己貴命・大后神・事代主神と菅贈相国(菅原道真)・吉祥女・中将殿・宰相殿という2つにグループに分けられるか。
大后神は、大己貴命の妃で、事代主神の母と考えると、神屋楯姫となるか。
古くは大原触の一部が氏子だったが彌佐支刀神社の氏子の中、西触の一部、平人触の一部が加わり隆盛を極めたという。
江戸時代前期の元禄2年(1689年)4月に社殿が造営され、江戸時代後期の文化2年(1805年)9月、神輿を新調した。
江戸時代には、国分にある國片主神社で開催されていた市と並ぶほど、当社の市も盛大に行われていたという。
大正9年(1920年)、神饌幣帛料供進社に指定された。例祭は10月25日で例大祭。
境内社に愛宕神社(石祠)があり、その工事中に祝部土器が出土したという。大正13年(1924年)には、弥生土器が出土。境内には2期の未発掘の前方後円墳があるという。
他に境内には、生き生きとした狛犬、力石、珍しい形の手水鉢、ホルトノキをはじめとした巨木が多くある。
【ご利益】
平穏安寧、厄災除け、学業・受験合格
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