もとは天神と呼ばれた水本山の式内社、壱岐最大の大イチョウ
水神社 長崎県壱岐市勝本町布気触440-1
[住所]長崎県壱岐市勝本町布気触440-1
[電話]-

水神社(みずじんじゃ/みずのじんじゃ)は、長崎県壱岐市勝本町布気触にある神社。国道382号線を、壱岐風土記の丘古墳館近くで東進。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 壱岐国 壱岐郡「水神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

創祀年代は不詳。一説には、平安時代前期の弘仁2年(811年)の創建とも。仁寿元年(851年)正月、正六位上に叙され、以後神階を進められた。

『太宰管内誌』によれば、戦国時代の大永7年(1527年)8月、社殿の造営があった。この際、菅贈相国(菅原道真)が合祀されたようで、現在は相殿に祀られている。

『壱岐神社明細帖」に「立石村、湯之本之内百三十九戸氏子、社地、二反四畝二十二歩、無税地、造営民費」とある。

『壱岐名勝図誌』に「当社元ハ天神と称せしを、延宝四年(一六七六)式社改の節、水本という地名に依て、神名式の水神社なりとす」とある。

これは橘三喜による査定。村名が水本(みずのもと)で、神社のある山が水本山(みずのもとやま)だったことによる。

当初は、布気川を上り、射辻というところにある下津岩根に鎮座した。海上を通る船が、帆を下ろし、神を敬わないと祟りがあり、海の見えない水本山に遷座した。

式内比定以前は布気天神・天満天神と呼ばれ、罔象女神を祀ったが、それ以降は速秋津日命を祀り、現社号になった。

あるいは、半城村の妙見宮河原神社を旧地とする説がある。その河原神社が式内社「水神社」の参考社である。

『壱岐国神名記』に「布気村水神社、小、改以前は天神と云う。式外」、『壱岐国神社帳』に「水の本、水神社、小神、二十四座之内」とある。

式内比定後、平戸藩主松浦鎮信は当社に御正体(木鏡1面)と石額を献進した。伊能忠敬『壱岐嶋図説』に「水神社布気村水の本、所祭速秋津日命」とある。

『神社書上帳』に「布気村の産神也、祠官並に長寿院の僧一同に初祈祷相勤候事」とある。長寿院が当時の別当だったか。

『寛政十一年巳未正月改壱岐国中人別帳』に「水神社、布気村、祠官十八神道、吉野右近、年五十六才」とある。寛政11年は江戸時代後期の1799年、現宮司も吉野氏。

『壱岐国惣図打添』にも当社の様子が描写されている。明治9年(1876年)、村社に列し、明治43年(1910年)10月、神饌幣帛供進社に指定された。

例祭は以前は旧暦8月25日だったが、現在は11月25日で神幸・大神楽。12月15日は神迎祭で大神楽。

境内社に、庚申社・稲荷社・金毘羅社・若宮社・山神・岬宮がある。境内にはイチョウの巨木がある。「水神社の大イチョウ」である。

「水神社銀杏」とも呼ばれ、江戸時代中期の寛保2年(1742年)にもその大きさが記録されており、壱岐最大、県下でも第2位の巨樹。

現在、幹が空洞になって焼けている。これは昔、神事に綱曳きを行った後、この木の側に置いていた綱が不思議にも焼失したため。

以来、神事は相撲に代えられた。江戸期石造肥前鳥居の一の鳥居のすぐ後に、土俵がある。

根周り10メートル、幹周り6メートル、樹高20メートル。2度の落雷被害を受けている。乳柱は多くが盗難に遭ったともされるが、今でもみられる。

他に、江戸時代から明治時代にかけての石工で、壱岐最大の名人と言われた茶屋本初蔵(ちゃやもとはつぞう)16歳の時の作とされる石灯籠がある。

【ご利益】
五穀豊穣、身体壮健、リフレッシュ、学業・受験合格
水神社 長崎県壱岐市勝本町布気触
【関連記事】
長崎県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、長崎県に鎮座している神社の一覧