式内だったが江戸期の比定に漏れて式外に、藩主崇敬十七社の一つ
[住所]長崎県壱岐市芦辺町湯岳本村触271
[電話]0920-45-4145
覩上神社(とかみじんじゃ)は、長崎県壱岐市芦辺町湯岳本村触にある神社。御朱印はあるともされるが、詳細は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 壱岐国 壱岐郡「角上神社」に比定される式内社(小社)の参考社。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。一説には当初、山上に出現した神だが、祭祀の不便から、麓に社殿を造営し、これを祀ったものだという。
寛永14年(1637年)4月、松浦隆信、忠生押字の棟札に「龔奉再興妙見宮御宝殿壱宇」とある。
また、慶安2年(1649年)9月、松浦鎮信押字の棟札に「龔奉再興湯岳村山方村妙見宮御宝殿一宇」とある。
その頃当社は「妙見宮」と呼ばれていたようだ。『壱岐国神社田畑帳』にも「妙見宮、宗廟、社領高七斗三舛祭米四舛四合、定祭九月廿六日御代参有」とある。
延宝4年(1676年)6月、橘三喜が式内調査に際して、式内社として、現在の角上神社を比定した。
それ以前までは当社が式内社と考えられてきたが、これ以降、式外とされた、という。
『神社明細帖』には「覩上神社、旧平戸藩崇敬十七社ノ一也、但式外氏子アリ」「社地二反八畝二十一歩、 無税。造営白銀五枚旧平戸藩寄附、氏子民費」などとある。
『壱岐神社誌』では、『延喜式』神名帳では、覩上神社という社名が「見上神社」と誤記された、としている。
ただし、これは『壱岐神社誌』の間違いで、先の角上神社と間違えられたというのが正しい。
ともかく、平戸藩主が一貫して崇敬した神社で、大祭に際しては神幸式、流鏑馬の神事が馬廻りの武士の代参のもと執行された、壱岐の神社十七社の一つ。
明治9年(1876年)12月、村社に列し、大正2年(1913年)11月、神饌幣帛料供進社に指定された。
御祭神は、素盞嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命。例祭は10月26日。
当社には、室町中期から江戸時代初期に作られたとされる、猿田彦命と天鈿女命の古い面が伝わる。
【ご利益】
厄災除け、夫婦和合、家内安全
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覩上神社(とかみじんじゃ)は、長崎県壱岐市芦辺町湯岳本村触にある神社。御朱印はあるともされるが、詳細は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 壱岐国 壱岐郡「角上神社」に比定される式内社(小社)の参考社。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。一説には当初、山上に出現した神だが、祭祀の不便から、麓に社殿を造営し、これを祀ったものだという。
寛永14年(1637年)4月、松浦隆信、忠生押字の棟札に「龔奉再興妙見宮御宝殿壱宇」とある。
また、慶安2年(1649年)9月、松浦鎮信押字の棟札に「龔奉再興湯岳村山方村妙見宮御宝殿一宇」とある。
その頃当社は「妙見宮」と呼ばれていたようだ。『壱岐国神社田畑帳』にも「妙見宮、宗廟、社領高七斗三舛祭米四舛四合、定祭九月廿六日御代参有」とある。
延宝4年(1676年)6月、橘三喜が式内調査に際して、式内社として、現在の角上神社を比定した。
それ以前までは当社が式内社と考えられてきたが、これ以降、式外とされた、という。
『神社明細帖』には「覩上神社、旧平戸藩崇敬十七社ノ一也、但式外氏子アリ」「社地二反八畝二十一歩、 無税。造営白銀五枚旧平戸藩寄附、氏子民費」などとある。
『壱岐神社誌』では、『延喜式』神名帳では、覩上神社という社名が「見上神社」と誤記された、としている。
ただし、これは『壱岐神社誌』の間違いで、先の角上神社と間違えられたというのが正しい。
ともかく、平戸藩主が一貫して崇敬した神社で、大祭に際しては神幸式、流鏑馬の神事が馬廻りの武士の代参のもと執行された、壱岐の神社十七社の一つ。
明治9年(1876年)12月、村社に列し、大正2年(1913年)11月、神饌幣帛料供進社に指定された。
御祭神は、素盞嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命。例祭は10月26日。
当社には、室町中期から江戸時代初期に作られたとされる、猿田彦命と天鈿女命の古い面が伝わる。
【ご利益】
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