伊邪那美尊の神陵地伝承、昭和まで吉野川唯一の舟渡御
[住所]徳島県美馬市美馬町中鳥338
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伊射奈美神社(いざなみじんじゃ)は、徳島県美馬市美馬町中鳥にある神社。吉野川の北岸、北は県道12号線の撫養街道が、東は県道127号線が走る。参拝すれば、大滝山春日神社で御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 美馬郡「伊射奈美神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

当社の遷座記念碑によれば、創祀は淡路伊佐奈伎神社と同時期と考えられ、当地は伊邪那美尊が国土産みを終え、神陵の地だという。

第11代垂仁天皇25年、伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)が造営され、太田姫命は末社80社を整備したといい、当社はその一社だという。

もとは吉野川の中島の中央部、海抜60メートルあまりの丘陵地にあった。現鎮座地は中鳥338、旧鎮座地は中鳥589。

平安時代の貞観11年(869年)、阿波国伊射奈美神社正五位の神階を賜う。伊邪那美尊を単独神として祀る全国唯一の神社だという。

阿波の美馬郡は古くから田畑の豊饒を祈願、古代の水の神として穀霊、穀神信仰、母神崇拝の稲作にゆかりの霊格の中心地である。

鎌倉時代初期の文治3年(1187年)、再建。その戸扉に「神代自古御鎮座、伊射奈美尊神社」とある。

本殿箱棟には神文十六菊御紋があり、古昔最も盛大なる神祠として、美馬・三好の総鎮守だったという。

戦国時代の天文年間(1532年-1555年)、三好長慶が祈願所に定め、綾地の御先織を献納したという。

元亀元年(1570年)には浅野但馬守が、安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)には久米刑馬亮が、後には前田京本入道が中鳥城主になった。

現在も境内には、初代中鳥城主である浅野但馬守の墓がある。

江戸時代になり、元和3年(1617年)、蜂須賀藩主家の祈願のため、黒昔織、甲冑2領を奉納、家老稲田稙元が祈願のため、長刀を奉納したという。

江戸時代中期の正徳3年(1713年)、享保16年(1731年)の棟札が現存する。

『徳島県神社誌』によれば、この旧鎮座地は、以前は半田町松生部落と地続きだったが、江戸時代後期の享和年間(1801年-1804年)の大水で島となったもの。

川中島になったのは享保11年(1726年)とも。中は君(神)を、鳥は臣(人)を表すという。

明治5年(1872年)9月、村社に列し、明治8年(1875年)に社殿建替えが行われた。平成4年(1992年)、吉野川改修工事のため、現在地に移転した。

御祭神は、伊邪那美尊・速玉之男神・事解男神。天照大神素盞嗚尊大山祇神猿田彦大神を合祀する。境内社に掃部・加門神社がある。

例祭は10月19日。春祭が旧暦1月19日で、夏祭が旧暦6月18日だったが、現在は7月1日で、輪抜けがある。

山車として、屋台1基、よいやしょ1基があったが廃絶。獅子舞も廃絶している。神輿渡御は行われ、昭和末年まで舟渡御もあったという。

当社の舟渡御は、氏子の多くが吉野川対岸のつるぎ町半田(旧 美馬郡半田町)にあるため、神輿をカンドリ舟に載せて、吉野川を渡り、氏子区域を巡幸したもの。

河川の流路変更、行政区分の変更を経て、氏子が川を挟んだ二つの町にまたがる形となったことにより、発生したものと考えられ、吉野川での舟渡御は唯一の事例だという。

なお、式内社「伊射奈美神社」の論社は他に、穴吹町に当社および式内同名神社、その奥宮である十二所神社、脇町猪尻の八幡神社、吉野川市山川町の高越神社がある。

【ご利益】
地域安全、安産、家内安全
伊射奈美神社 徳島県美馬市美馬町中鳥
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伊射奈美神社 徳島県美馬市美馬町中鳥の御朱印