もとは波尓移麻比弥神社、11月3日に古式の神興の御旅、2本の大スギ
[住所]徳島県三好市井川町井内東22
[電話]0883-78-2132
馬岡新田神社(うまおかにったじんじゃ)は、徳島県三好市井川町井内東にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 美馬郡「波尓移麻比弥神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。もとは、波尓移麻比弥神社と称し、農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)を祀っていた。
埴山姫命は、伊邪那美命が迦具土神出産による火傷で死ぬ時にした糞。糞に象徴される土の神である。
同時に出した尿に象徴される水の神は、罔象女神であるが、式内社「彌都波能賣神社」に相当し、その論社である武大神社は、当社の北わずか200メートル。
当社と武大神社、そして当社境内にある八幡神社をあわせて、三社の森と呼ばれているという。
平安時代末期の元暦2年(1185年)、屋島の合戦に敗れて当地に落ちのびた第81代安徳天皇を合祀し、馬岡大明神と称した。
一般には、安徳天皇は屋島の合戦の次の壇ノ浦の戦いで、母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられて入水したとされる。
ただし、社宝として伝えられる竜頭(りゅうず)に鎌倉時代の「正治2年(1200年)5月吉辰大工藤原高綱」とあり、木鳥の背に「埴山姫神社」と彫られているという。
その後、南北朝時代、当地の八ツ石城を築城した新田義治を合祀し、波尓移麻比弥神社馬岡新田大明神となった。
ただし、戦国時代の大永2年(1522年)、当社に遺されている神官の先祖千日太夫の記録に、「波爾移麻比称神社」とある。
『阿波志』や『阿波史』にも記載され、名称はその都度変更されたが、一貫して、埴安姫命を祀る社としての証拠が残る。
さらに、明治4年(1871年)、境内から出土した室町時代の銅鏡の側面に「波爾移麻比称神社御神鏡」と釘彫りされている。
明治27年(1894年)、現社号に改称した。明治40年(1907年)、神選幣帛料供進社に指定された。
御祭神は、徳島県神社庁によれば、安徳天皇・平国盛・新田義治・埴安姫命。平国盛は平教経のことであれば、安徳天皇と同時代の平家方武将。
『平家物語』では、平家方最強で、源義経の宿敵手的存在として描かれている。やはり壇ノ浦の戦いで入水しており、安徳天皇と同じ時期の合祀か。
一方で、『平成祭データ』によれば、御祭神の中に、安徳天皇が含まれておらず、境内社である祖霊社の御祭神として祀られているとされている。
そのため、資料によっては御祭神の変動があり、天神玉命・倉稲魂命などが加わる場合もある。
例祭は11月3日。神事は武大神社の「卯の刻祭」に始まり、午後に当社の神興の御旅が中心となって、古式にのっとり、整然と華やかに行われる御旅で知られる。
江戸時代前期の元禄年間(1688年-1704年)には、30名からなる警固のうちに神事が行われたというが、現在は警固はない。
道路より一段高い境内の端に1本、反対側の自動車参道入口に1本、つまり境内の両端、聖域を守るかのように、計2本の大杉が立っている。
それぞれ樹高は25メートルと30メートル、目通り幹囲は7.5メートルと6.7メートル。立地条件が違うためか、樹肌の色や模様、幹囲の減衰率など、それぞれ少し異なる。
式内社「波尓移麻比弥神社」の論社は他に、美馬市脇町北庄に波爾移麻比禰神社がある。
【ご利益】
五穀豊穣、厄災除け、諸願成就

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馬岡新田神社(うまおかにったじんじゃ)は、徳島県三好市井川町井内東にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 美馬郡「波尓移麻比弥神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。もとは、波尓移麻比弥神社と称し、農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)を祀っていた。
埴山姫命は、伊邪那美命が迦具土神出産による火傷で死ぬ時にした糞。糞に象徴される土の神である。
同時に出した尿に象徴される水の神は、罔象女神であるが、式内社「彌都波能賣神社」に相当し、その論社である武大神社は、当社の北わずか200メートル。
当社と武大神社、そして当社境内にある八幡神社をあわせて、三社の森と呼ばれているという。
平安時代末期の元暦2年(1185年)、屋島の合戦に敗れて当地に落ちのびた第81代安徳天皇を合祀し、馬岡大明神と称した。
一般には、安徳天皇は屋島の合戦の次の壇ノ浦の戦いで、母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられて入水したとされる。
ただし、社宝として伝えられる竜頭(りゅうず)に鎌倉時代の「正治2年(1200年)5月吉辰大工藤原高綱」とあり、木鳥の背に「埴山姫神社」と彫られているという。
その後、南北朝時代、当地の八ツ石城を築城した新田義治を合祀し、波尓移麻比弥神社馬岡新田大明神となった。
ただし、戦国時代の大永2年(1522年)、当社に遺されている神官の先祖千日太夫の記録に、「波爾移麻比称神社」とある。
『阿波志』や『阿波史』にも記載され、名称はその都度変更されたが、一貫して、埴安姫命を祀る社としての証拠が残る。
さらに、明治4年(1871年)、境内から出土した室町時代の銅鏡の側面に「波爾移麻比称神社御神鏡」と釘彫りされている。
明治27年(1894年)、現社号に改称した。明治40年(1907年)、神選幣帛料供進社に指定された。
御祭神は、徳島県神社庁によれば、安徳天皇・平国盛・新田義治・埴安姫命。平国盛は平教経のことであれば、安徳天皇と同時代の平家方武将。
『平家物語』では、平家方最強で、源義経の宿敵手的存在として描かれている。やはり壇ノ浦の戦いで入水しており、安徳天皇と同じ時期の合祀か。
一方で、『平成祭データ』によれば、御祭神の中に、安徳天皇が含まれておらず、境内社である祖霊社の御祭神として祀られているとされている。
そのため、資料によっては御祭神の変動があり、天神玉命・倉稲魂命などが加わる場合もある。
例祭は11月3日。神事は武大神社の「卯の刻祭」に始まり、午後に当社の神興の御旅が中心となって、古式にのっとり、整然と華やかに行われる御旅で知られる。
江戸時代前期の元禄年間(1688年-1704年)には、30名からなる警固のうちに神事が行われたというが、現在は警固はない。
道路より一段高い境内の端に1本、反対側の自動車参道入口に1本、つまり境内の両端、聖域を守るかのように、計2本の大杉が立っている。
それぞれ樹高は25メートルと30メートル、目通り幹囲は7.5メートルと6.7メートル。立地条件が違うためか、樹肌の色や模様、幹囲の減衰率など、それぞれ少し異なる。
式内社「波尓移麻比弥神社」の論社は他に、美馬市脇町北庄に波爾移麻比禰神社がある。
【ご利益】
五穀豊穣、厄災除け、諸願成就

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