大三島を勧請した周敷宮内・津宮周敷大明神、雨乞いに霊験
[住所]愛媛県西条市宮ノ内48
[電話]0898-66-3811
宮内神社(みやうちじんじゃ)は、愛媛県西条市宮ノ内にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 伊予国 桑村郡「周敷神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
第34代舒明天皇(在位:629年-641年)行宮の古跡とされ、舒明天皇11年(639年)12月、伊予国国司に勅して大三島明神を勧請し、三島新宮と称したのが当社の起源。
御祭神は、大山祇神(おほやまつみのかみ)・高龗神(たかおかみのかみ)・雷神(いかづちのかみ)。
行宮を津ノ宮と号したため、これが郷名になって、津宮郷になったという。第37代斉明天皇(在位:655年-661年)崩御の際には、当社に奉幣勅願があった。
平安時代になり、貞観13年6月(871年)に勅して全国の名社に祈雨祭を斎行させた時、伊予国桑村郡津ノ宮大明神の神名が見えるという。
平安時代末期の寿永年間(1182年-1184年)、源平合戦の際、社殿が炎上したが、文治2年(1186年)、河野通俊が社頭を改造し、神領ももとの通り寄進した。
南北朝時代の戦乱で、再び炎上し、宝器なども焼失した。延元2年(1337年)3月、征南将軍宮満良親王が御太刀を添え、奉幣の式が執行した。
延文4年(1359年)6月、旱魃に際して、神主の藤原松麿に周布・桑村両郡の雨乞を命じられた記録がある。
文安6年(1449年)の玉殿造立の棟札が確認されており、近郊では最古の社、かつ棟札であろうとされてる。
安土桃山時代の天正13年(1585年)8月、小早川隆景が攻め入った時、その陣営となり、越智、櫛部勢などと決戦、そのため社頭は残らず炎上し、神宝もすべて失った。
社号も何度か変更があったようで、記録では、周敷宮内大明神、津宮周敷大明神、三島新宮、宮内大明神などとある。
「周敷神社」と読める棟札を保有しているため、往時は式内社を主張、他の論社と争ったともいう。
他の論社に、周布の式内同名神社、国安の周敷神社・藤原神社合殿、円海寺の保内八幡神社の境内社がある。
江戸時代前期の寛文年間(1661年-1672年)、現社号に改称されたことが、現存する棟札などにより立証されている。
松山藩主による神領の寄進、社殿の再建、社殿の修治の他、歴代藩主の社参、金穀の寄進などがあった。
藩主の参詣・寄進は、寛永15年(1638年)9月、寛文13年(1673年)5月、宝永3年(1706年)5月、享保16年(1772年)などの記録が残る。
現在の本殿は、絵d時代後期の天保4年(1833年)、拝殿は明治初期の建築だという。
氏子は河原津、黒之谷、河之内の一部を除き、河北一帯、つまり庄内・三芳・楠の旧3ヶ村の全域。古の津ノ宮、御井両郷の総氏神として崇敬されている。
例祭は10月15日で秋祭り。3基の神輿が三地区に分かれて巡行する。子ども神輿、獅子舞、祝太鼓なども宮出しに参加し、祭りを盛りたてる。
境内社に、蛭子・白山・生田社(事代主神・大山咋命・稲田女命)、庚申社(猿田彦命)、天神社(菅原道真公)、水神社(水波之女神)、若宮社(仁徳天皇)、荒神社(須佐之男命)、祖霊社(神主家祖霊)、狸神などがある。
【ご利益】
祈雨・天候、五穀豊穣、健康長寿

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宮内神社(みやうちじんじゃ)は、愛媛県西条市宮ノ内にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 伊予国 桑村郡「周敷神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
第34代舒明天皇(在位:629年-641年)行宮の古跡とされ、舒明天皇11年(639年)12月、伊予国国司に勅して大三島明神を勧請し、三島新宮と称したのが当社の起源。
御祭神は、大山祇神(おほやまつみのかみ)・高龗神(たかおかみのかみ)・雷神(いかづちのかみ)。
行宮を津ノ宮と号したため、これが郷名になって、津宮郷になったという。第37代斉明天皇(在位:655年-661年)崩御の際には、当社に奉幣勅願があった。
平安時代になり、貞観13年6月(871年)に勅して全国の名社に祈雨祭を斎行させた時、伊予国桑村郡津ノ宮大明神の神名が見えるという。
平安時代末期の寿永年間(1182年-1184年)、源平合戦の際、社殿が炎上したが、文治2年(1186年)、河野通俊が社頭を改造し、神領ももとの通り寄進した。
南北朝時代の戦乱で、再び炎上し、宝器なども焼失した。延元2年(1337年)3月、征南将軍宮満良親王が御太刀を添え、奉幣の式が執行した。
延文4年(1359年)6月、旱魃に際して、神主の藤原松麿に周布・桑村両郡の雨乞を命じられた記録がある。
文安6年(1449年)の玉殿造立の棟札が確認されており、近郊では最古の社、かつ棟札であろうとされてる。
安土桃山時代の天正13年(1585年)8月、小早川隆景が攻め入った時、その陣営となり、越智、櫛部勢などと決戦、そのため社頭は残らず炎上し、神宝もすべて失った。
社号も何度か変更があったようで、記録では、周敷宮内大明神、津宮周敷大明神、三島新宮、宮内大明神などとある。
「周敷神社」と読める棟札を保有しているため、往時は式内社を主張、他の論社と争ったともいう。
他の論社に、周布の式内同名神社、国安の周敷神社・藤原神社合殿、円海寺の保内八幡神社の境内社がある。
江戸時代前期の寛文年間(1661年-1672年)、現社号に改称されたことが、現存する棟札などにより立証されている。
松山藩主による神領の寄進、社殿の再建、社殿の修治の他、歴代藩主の社参、金穀の寄進などがあった。
藩主の参詣・寄進は、寛永15年(1638年)9月、寛文13年(1673年)5月、宝永3年(1706年)5月、享保16年(1772年)などの記録が残る。
現在の本殿は、絵d時代後期の天保4年(1833年)、拝殿は明治初期の建築だという。
氏子は河原津、黒之谷、河之内の一部を除き、河北一帯、つまり庄内・三芳・楠の旧3ヶ村の全域。古の津ノ宮、御井両郷の総氏神として崇敬されている。
例祭は10月15日で秋祭り。3基の神輿が三地区に分かれて巡行する。子ども神輿、獅子舞、祝太鼓なども宮出しに参加し、祭りを盛りたてる。
境内社に、蛭子・白山・生田社(事代主神・大山咋命・稲田女命)、庚申社(猿田彦命)、天神社(菅原道真公)、水神社(水波之女神)、若宮社(仁徳天皇)、荒神社(須佐之男命)、祖霊社(神主家祖霊)、狸神などがある。
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