八国見山の山頂から直接現在地に遷座した多加意加美本宮
[住所]広島県庄原市口和町宮内甲156
[電話]-
本宮神社(もとみやじんじゃ)は、広島県庄原市口和町宮内にある神社。北に標高844.7メートルの八国見山があり、県道186号線沿い。御朱印の有無は不明。
参道入口に立てられた石鳥居の扁額に「多加意加美本宮」とある。『延喜式』巻9・10神名帳の山陽道神 備後国 恵蘇郡「多加意加美神社」に比定される式内社(小社)の論社。
多加意加美神社(たかおかみじんじゃ/たかおがみじんじゃ)は現在、当社から南1キロほどの向泉地区に鎮座する。
創祀は元明天皇の御代、奈良時代直前の和銅2年(709年)、標高844.7メートルの八国見山の山頂に鎮座したという。御祭神は高龗神。
その後、資料により遷座時期や鎮座地は異なるが、八国見山の山頂から、向泉木原・宝蘇山、そして現在地に移った。
そのため、当社は、向泉木原か、宝蘇山かのいずれかに該当する可能性がある。多加意加美神社が遷座した後も当地で祭祀が続けられた、その意味での本宮か。
当地への遷座時期は江戸時代前期の延宝6年(1678年)とされる。『式内社調査報告』では宝蘇山、『広島県神社誌』では向泉木原、となる。
ただ、当社由緒では、八国見山の山頂から直接当地に遷座したとされるが、『式内社調査報告』『広島県神社誌』では延宝6年の前にそれぞれ別の地に遷座している。
どちらにしろ、『延喜式』当時、式内社「多加意加美神社」が鎮座したのは八国見山の山頂だったことは間違いなく、論社というよりは遷座史の確認に近い。
当社の本殿は正面1間、背面2間、梁間2間の流造。柱は正規の円柱を使い、長押と頭貫で固定する。
頭貫には全体に彫刻が施され、梁間方向に木鼻を出す。正面方向は木鼻がそのまま海老虹梁となり向拝柱に繋がれている。
柱の上に大斗を置き三斗組が軒を支える。縁は三方を回り背面は脇障子で止められている。高欄は跳高欄。
妻飾りは虹梁に束を立てて豕扠首を組み合わせたもので、サス竿は波形に装飾されている。
例祭はもとは10月2日だったが、現在は11月3日。境内地は160坪で、境外地として30坪ある。摂末社に若宮神社がある。
【ご利益】
五穀豊穣、身体壮健、健康長寿
【関連記事】
・広島県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、広島県に鎮座している神社の一覧
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本宮神社(もとみやじんじゃ)は、広島県庄原市口和町宮内にある神社。北に標高844.7メートルの八国見山があり、県道186号線沿い。御朱印の有無は不明。
参道入口に立てられた石鳥居の扁額に「多加意加美本宮」とある。『延喜式』巻9・10神名帳の山陽道神 備後国 恵蘇郡「多加意加美神社」に比定される式内社(小社)の論社。
多加意加美神社(たかおかみじんじゃ/たかおがみじんじゃ)は現在、当社から南1キロほどの向泉地区に鎮座する。
創祀は元明天皇の御代、奈良時代直前の和銅2年(709年)、標高844.7メートルの八国見山の山頂に鎮座したという。御祭神は高龗神。
その後、資料により遷座時期や鎮座地は異なるが、八国見山の山頂から、向泉木原・宝蘇山、そして現在地に移った。
そのため、当社は、向泉木原か、宝蘇山かのいずれかに該当する可能性がある。多加意加美神社が遷座した後も当地で祭祀が続けられた、その意味での本宮か。
当地への遷座時期は江戸時代前期の延宝6年(1678年)とされる。『式内社調査報告』では宝蘇山、『広島県神社誌』では向泉木原、となる。
ただ、当社由緒では、八国見山の山頂から直接当地に遷座したとされるが、『式内社調査報告』『広島県神社誌』では延宝6年の前にそれぞれ別の地に遷座している。
どちらにしろ、『延喜式』当時、式内社「多加意加美神社」が鎮座したのは八国見山の山頂だったことは間違いなく、論社というよりは遷座史の確認に近い。
当社の本殿は正面1間、背面2間、梁間2間の流造。柱は正規の円柱を使い、長押と頭貫で固定する。
頭貫には全体に彫刻が施され、梁間方向に木鼻を出す。正面方向は木鼻がそのまま海老虹梁となり向拝柱に繋がれている。
柱の上に大斗を置き三斗組が軒を支える。縁は三方を回り背面は脇障子で止められている。高欄は跳高欄。
妻飾りは虹梁に束を立てて豕扠首を組み合わせたもので、サス竿は波形に装飾されている。
例祭はもとは10月2日だったが、現在は11月3日。境内地は160坪で、境外地として30坪ある。摂末社に若宮神社がある。
【ご利益】
五穀豊穣、身体壮健、健康長寿
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