もとは八国見山の山頂、江戸後期本殿や室町以降の獅子狛犬・随身像
多加意加美神社 広島県庄原市口和町向泉973
[住所]広島県庄原市口和町向泉973
[電話]0824-87-2300

多加意加美神社(たかおかみじんじゃ/たかおがみじんじゃ)は、広島県庄原市口和町向泉にある神社。御朱印の有無は不明。

松江自動車道の口和から県道62号線を東進。近くには口北小学校があり、隣に浄蓮寺がある。地元では「やくろびさん」と親しまれている。

延喜式』巻9・10神名帳山陽道神 備後国 恵蘇郡「多加意加美神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

創祀は元明天皇の御代、奈良時代直前の和銅2年(709年)、標高844.7メートルの八国見山の山頂に鎮座したという。御祭神は高龗神

『式内社調査報告』によれば、その後、向泉木原へ移り、江戸時代前期の寛永9年(1632年)、宝蘇山に移ったという。

一方で、『広島県神社誌』では、戦国時代の大永年間(1521年-1528年)に宝蘇山へ移り、さらに寛永9年に向泉木原に遷座したと、逆になっている。

どちらにしろ、もとの鎮座地の八国見山の山麓に宮内という地名が残る。この宮内に、本宮神社があり、当社の旧地、本宮とされ、やはり式内論社。

江戸時代後期の文化6年(1809年)、八国見大明神と称していたものを、頼杏坪が式内社に比定し、旧称である現社号に復した。

復称は文化14年(1817年)のことともされる。現在の東隣の浄蓮寺が旧別当だったともされるが、現在地への遷座は大正期のこと。

明治6年(1873年)、郷社に列した。明治44年(1911年)に村社八幡神社(品陀和気命息長帯比売命)と日枝神社(大山祇命)を合祀した。

大正3年(1914年)、合祀した八幡神社の旧社地である現在地に遷座した。あるいは、現在地の北側にある神宮司が別当ともされるが不詳。

つまり、順番はともかく、当社の旧社地は以下の通りであり、向泉木原・宝蘇山がよく分かっておらず、どちらかが本宮神社の地と考えられる。

・八国見山の山頂
・向泉木原
・宝蘇山
・現在地

さらに、現在地は、向泉木原・宝蘇山のどれかに該当するという説もある。どちらにしろ、『延喜式』当時、式内社「多加意加美神社」が鎮座したのは八国見山の山頂ではある。

現在の本殿は、市指定重要文化財。江戸時代後期の19世紀前半の建築とされるので、旧地からの移築となる。

一間社入母屋造で、銅板葺の屋根には千鳥破風が飾られる。大棟には外削ぎの千木と鰹木を置く。身舎の四方に縁を巡らし跳高欄を造る。

柱は正規の円柱で長押を打ち、木鼻を出した頭貫で固定。柱上には和様の台輪を置く。一手先で丸桁を受け、中備には彫刻蟇股を置く。

軒は二軒平行繁垂木である。入母屋の妻飾りは虹梁大瓶束。向拝は軒唐破風を飾り、身舎とは海老虹梁で繋がれる。

向拝柱は角柱で、それを繋ぐ海老虹梁、水引虹梁共に木鼻を出して獅子が彫刻されている。また、手挟や蟇股の彫刻も立派だ。

本殿内陣に木造の獅子狛犬7体、随身像8体が安置されている。室町時代から江戸時代までの各時期のもの。技功の優れた仏師の作と素人風の素朴なものとが混在している。

例祭は10月30日近い日曜日。表参道の鳥居は木製で、両部鳥居。奥に石鳥居が建ち、裏参道にも石鳥居が建てられている。

市の天然記念物に指定された社叢は、元八幡宮の跡地というだけあって、樹齢250年と推定された27本のスギの大木や、カシ、モミの大木が鬱蒼と茂る。

特に、社殿に向かって右奥に境内社の天満宮があり、その横に立っている大スギは、樹高28メートル、目通り幹囲5.5メートル。

昭和初期、『備後史談』に掲載された得能正道の参拝記には、当社境内の樹木に呪詛の釘が打たれていたと記されている。現在はそれらしい跡はない。

【ご利益】
五穀豊穣、地域安全、家内安全、安産、厄災除け
多加意加美神社 広島県庄原市口和町向泉
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