もとは朱砂を産出した権現山の高野権現、江戸後期に現在地に復興
爾比都売神社 広島県庄原市西城町西城131
[住所]広島県庄原市西城町西城131
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爾比都売神社(にびつめじんじゃ、爾比都賣神社)は、広島県庄原市西城町西城にある神社。御朱印の有無は不明。

国道183号線の西城橋東詰の信号を西進。東に183号線、西に芸備線の線路に挟まれる形で鎮座する。

延喜式』巻9・10神名帳山陽道神 備後国 奴可郡「迩比都売神社/邇比都売神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

もとは久代のニヒツ山(権現山)に鎮座していた。今は高野八幡神社と呼ばれる八幡神社が鎮座している。

最初は爾比都売神の単独祭祀だったが、権現山は、古代の丹生山、つまり朱砂を産出する山であることが判明。

後代、修験に護持されて丹生高野の両所明神と御祭神が変化し、この地の朱砂の産出が絶えると、創祀以來の爾比都売神が忘却されたという。

その後、高野明神だけが高野権現の形でその地に留まっていたが、その高野明神もやがては修験の衰頽と運命をともにした。

江戸時代になると、『芸藩通志』には「今その所在を失ふ」と記され、式内社「迩比都売神社」は所在不明となった。

江戸時代後期の文化年間(1804年-1817年)、権現山の西約30キロ、もとは厳島神社があったともされる現在地に再興された。

社伝によれば、文化14年(1817年)、厳島神社に勧請、文政7年(1824年)に藩から創建の許可が出たという。

幕末の安政5年(1858年)、社殿が造営された、その棟札が現存する。明治6年(1873年)、郷社に列し、明治40年(1907年)3月19日には神饌幣帛料供進社に指定された。

拝殿は桁行4間、梁間3間、妻入の入母屋造で、正面には1間の軒唐破風向拝を持つ。向拝の虹梁上に彫刻がある。

木鼻は象鼻を飾り、連三斗が軒を支え、身舎とは海老虹梁で繋ぐ。本殿は神明造で正規の棟持柱、鞭懸も備わる。

大棟上には6本の鰹木が置かれ、千木は妻の破風板が屋根上に延長された正規のものである。今建つ本殿は昭和11年(1936年)に再建されたもの。

現在までに御祭神は、埴山毘売神金山毘古神大山祇神。石鳥居の扁額には、木山神社も併記されている。例祭は4月20日。境内社に善覚神社(倉稲魂神保食神)がある。

なお、式内社「迩比都売神社」の論社は先の高野八幡神社の他、小奴可の奴可神社がある。

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爾比都売神社 広島県庄原市西城町西城
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