風土記・書紀所載の石川王が崇敬、後に石川王を合祀した式内論社
[住所]広島県福山市芦田町上有地423
[電話]-
国司神社(くにしじんじゃ)は、広島県福山市芦田町上有地にある神社。県道396号線に近く、近くには有磨小学校がある。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳の山陽道神 備後国 葦田郡「国高依彦神社/國高依彦神社」に比定される式内社(小社)の論社。
創始年代は不詳。社伝によれば、第39代弘文天皇元年(672年)、壬申の乱で大功のあった石川王が吉備大宰(吉備総領)となって当地を治めた。
石川王は、第30代敏達天皇皇子の難波皇子の子とされ、吉備大宰の時に、当社を尊崇して、社殿を造営したという。当社の御祭神は大国主神・国高依彦命。
『播磨国風土記』に、石川王が総領だったときに都可の村を広山の里と改名したと記す箇所がある。 広山の里は、現たつの市誉田町広山にあたる。
第40代天武天皇8年(679年)3月9日、石川王は薨去。『日本書紀』によれば、天皇はとても悲しみ、石川王に諸王二位を贈った。
薨去後、石川王は当社に祀られ、以来、国司の社と呼ばれるようになった。国四神社、九四神社とも表記された。
「国司」と書いて、通常は「こくし」と読むが、当社名は「くにし」と読む。これは、この地方の言葉訛だという。例祭は10月15日の前の日曜日で、例大祭。
御祭神の国高依彦命は不詳。ほぼ、当社だけで祀られている神であり、『福山志料』では、国高依彦神は国常立尊として、当社を式内比定した。
しかし、皇學館大学が編纂した『式内社調査報告』では、当社は過去に一度も国高依彦神社と称されたことがないとして、この説を否定している。
式内社「国高依彦神社」の他の論社に、市内新市町藤尾の龍神社とも呼ばれる高靇神社の相殿神がある。
【ご利益】
地域安全、産業振興、事業成功、病気平癒
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・広島県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、広島県に鎮座している神社の一覧
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国司神社(くにしじんじゃ)は、広島県福山市芦田町上有地にある神社。県道396号線に近く、近くには有磨小学校がある。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳の山陽道神 備後国 葦田郡「国高依彦神社/國高依彦神社」に比定される式内社(小社)の論社。
創始年代は不詳。社伝によれば、第39代弘文天皇元年(672年)、壬申の乱で大功のあった石川王が吉備大宰(吉備総領)となって当地を治めた。
石川王は、第30代敏達天皇皇子の難波皇子の子とされ、吉備大宰の時に、当社を尊崇して、社殿を造営したという。当社の御祭神は大国主神・国高依彦命。
『播磨国風土記』に、石川王が総領だったときに都可の村を広山の里と改名したと記す箇所がある。 広山の里は、現たつの市誉田町広山にあたる。
第40代天武天皇8年(679年)3月9日、石川王は薨去。『日本書紀』によれば、天皇はとても悲しみ、石川王に諸王二位を贈った。
薨去後、石川王は当社に祀られ、以来、国司の社と呼ばれるようになった。国四神社、九四神社とも表記された。
「国司」と書いて、通常は「こくし」と読むが、当社名は「くにし」と読む。これは、この地方の言葉訛だという。例祭は10月15日の前の日曜日で、例大祭。
御祭神の国高依彦命は不詳。ほぼ、当社だけで祀られている神であり、『福山志料』では、国高依彦神は国常立尊として、当社を式内比定した。
しかし、皇學館大学が編纂した『式内社調査報告』では、当社は過去に一度も国高依彦神社と称されたことがないとして、この説を否定している。
式内社「国高依彦神社」の他の論社に、市内新市町藤尾の龍神社とも呼ばれる高靇神社の相殿神がある。
【ご利益】
地域安全、産業振興、事業成功、病気平癒
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